三国志地図|中国にも九州があった?州について分かりやすく解説

2015年5月17日


 

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三国志地図

 

三国志は古代中国の物語ですので、当然、その時代の地名が頻繁に登場してきます。中でも特に目にすることが多いのが『州(しゅう)』の名前でしょう。

桃園の誓いをする劉備、張飛、関羽

 

劉備(りゅうび)が関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)と義兄弟の契りを交わした涿県楼桑村(たくけんろうそうそん)は当時の兗州(えんしゅう)にあり、彼が皇帝として支配した蜀(しょく)の国は州で言えば益州(えきしゅう)という地にあたります。

 

三国時代の行政区画はどのように分けられていたのでしょうか?

そして、『州』とはどんな規模の行政区画だったのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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『州』は現代日本の都道府県に当たる?

 

中国において『州』という行政区画が用いられるようになったのは、三国時代より1200年程前の周(しゅう)の時代にさかのぼることができます。当時は中国全土を九つの州に分け、これを『九州(きゅうしゅう)』と総称しました。

 

三国時代より200年程前、後漢(ごかん)の時代になると、行政区画は州・郡(ぐん)・県(けん)の三級制が敷かれるようになります。州は行政区画の最も大きな単位で、現代の日本で言うなら『都道府県』に当たると言えるでしょう。後漢の時代には13の州が設置されましたが、『九州』という呼称は中国全土を意味する言葉として、後の世でも用いられています。

 



三国時代の14州について

三国志地図 州

 

三国志の舞台となる三国時代には、中国全土は

 

・幽州(ゆうしゅう)

・青州(せいしゅう)

・冀州(きしゅう)

・并州(へいしゅう)

・徐州(じょしゅう)

・兗州(えんしゅう)

・豫州(よしゅう)

・司州(ししゅう)

・雍州(ようしゅう)

・涼州(りょうしゅう)

・揚州(ようしゅう)

・荊州(けいしゅう)

・益州(えきしゅう)

・交州(こうしゅう)

 

の、全14州に区分されていました。各州がどのような場所にあったかについては、地図をご参照ください。三国鼎立が成立した時代、魏は首都である洛陽のある司州の他、幽・青・冀・并・徐・兗・豫・雍・涼の十の州を支配下においていました。

 

揚州の建業を都とした呉は、その他荊州と交州、合わせて3つの州を治めました。当初、荊州は益州の成都を都とした蜀の支配下にありましたが後に呉に奪われており、最終的には益州ひとつだけをその領土としました。

 

現在も用いられている『州』

 

三国時代以降も、『州』は行政区画を表す名称として用いられ続けています。三国時代から約300年後の隋(ずい)の時代、州という単位は一時的に廃止されましたが、次の唐の時代には、道(どう)の下にあたる区分の名称として復活しました。現在の中国、中華人民共和国でも、『州』の名称は『省(しょう)』などの第一級行政区の下にあたる少数民族の自治州として使われています。

 

ながら三国志

 

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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