鄧艾(とうがい)ってどんな人?苦労人のド根性人生に迫る

2015年10月9日


 

鄧艾

 

西暦263年、蜀を滅亡させた魏将として記録される鄧艾(とうがい)と鐘会(しょうかい)。二人は生い立ちは真逆といえる存在ですが自己顕示欲の強さなどは、奇妙な程に似ていました。

 

鐘会は以前(鍾会(しょうかい)ってどんな人?蜀を滅ぼして独立を目指した男)に紹介しましたので、今度はもう一人の立役者である鄧艾の人生を追ってみましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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貧乏のどん底から這い上がる苦労人

貧乏のどん底から這い上がる苦労人な鄧艾

 

鄧艾は字を士載(しさい)と言います、荊州義陽郡棘陽(きょくよう)県の出身でしたが、彼が、まだ幼い頃に父は亡くなり、家族は激しい貧乏に襲われます。しかも鄧艾が少年の頃、荊州の劉琮(りゅうそう)は曹操(そうそう)に降伏、曹操は屯田の為に棘陽県の人々の一部を汝南に移住させます。鄧艾は、この中に入っていました。

 

12歳になった頃、鄧艾は母に連れられて穎川(えいせん)に行き、「文は世の範たり、行ないは士の則たり」と書かれた陳太丘碑文を読みました。これは、陳寔(ちんしょく)という穎川に産まれた儒者の言葉ですが、陳寔もまた、鄧艾のように貧しい境遇から身を起した苦労人でした。

 

鄧艾「文徳を天下に及ぼして世の模範となり、行いを正しくして世の士大夫の則(従うべきルール)になるか・・俺も、陳寔のように正しい行いをして民を救い、世に名前を残すぞ」

 

鄧艾は感銘を受けて、碑文から名を取り、鄧範士則と名乗りました。一度は鄧範と名乗った鄧艾ですが、一族の者が鄧範を名乗ったので、再度、改名して鄧艾士載と自称するようになります。

 

生まれつきの吃音(きつおん)が出世の障害に

生まれつきの吃音(きつおん)が出世の障害になった鄧艾

 

鄧艾は12~13歳で出仕しますが、彼には生まれつきのどもりがありました。才能は高いのですが、その吃音を周囲にからかわれ、中々出世できません。彼の家は、相変わらずの凄まじい貧乏で同情した郡の役人が鄧艾を無償で援助したようですが、彼は当初、援助されている事を惨めに思い、全くお礼を言わなかったようです。

 

鄧艾は、当時としては軽く見られていた農政官の末端に仕官しながら、黙々と実績を積み重ね、地道に出世を重ねていきます。典農綱紀(てんのうこうき)・上計吏(じょうけいり)と出世した鄧艾は、都へ上申する為の使者に選ばれます。

 

鄧艾、司馬懿(しばい)に謁見(えっけん)して才能を認められる

司馬懿

この上京は鄧艾の運命を大きく変える事になりました。彼は魏の実力者である司馬懿(しばい)と謁見が適う事になり自身の意見を、吃音も気にせずに、司馬懿に述べました。

 

司馬懿「士載、、田舎には戻らずともよい、今からワシの属官として働け」

 

流石は司馬懿だけはあり、どもりの内側に隠された鄧艾の才能に気づき、彼を自分の属官にした上で尚書郎に任命しました。出世の望めない地方官僚から司馬懿の引き立てで中央へ鄧艾は引き立てられたのです。

 

鄧艾の大プロジェクトが魏の天下統一を一歩引き寄せる

鄧艾の大プロジェクトが魏の天下統一を一歩引き寄せる

 

当時の魏では、呉の討伐を容易にするべく、食糧の大増産が計画されていました。鄧艾も農政官僚としてのキャリアを買われてスタッフとして参加して、陳から寿春に至る一帯を調査し、この土地は肥えているのに水が少ないという事実につきあたりました。

 

そこで、鄧艾は灌漑の為に運河を引き、水の便と航路の便を良くするように提案し「済河論(せいがろん)」という本を書いて、具体的に説明しました。

 

さらに鄧艾は、これまで許昌に集積していた食糧貯蔵庫は江南からは遠すぎ兵員の輸送コストが高くつくので、これを淮南、淮北に南下させて、ここに運河を通して陳から寿春の穀物を集積し北の屯田兵も南下させて、呉征伐を容易にするように提案します。司馬懿は、その意見を全て入れ、運河は241年には完成、魏は10万の大軍を5年間養える程の大量の食糧を蓄える事に成功しました。

 

姜維キラー鄧艾

姜維

 

鄧艾は農政ばかりではなく、軍事でも実力を発揮しました。参西征軍事に昇進してからは、郭淮(かくわい)の副官として、この頃、活発に魏の領土にちょっかいを出していた蜀の姜維(きょうい)の攻撃を完全に防いでいます。師である孔明の遺言を奉じる姜維は、諦めずさらに255年に隴西郡に進攻、魏では雍州刺史の王経(おうけい)が迎撃に当たりますが洮西(ちょうせい)で蜀軍に大敗します。

 

王経は数万の兵を失い、狄道(てきどう)城に退却するも蜀軍に包囲されて絶対絶命。この時に鄧艾は、陳泰(ちんたい)とともに王経の救援のため狄道に向かって姜維の包囲を解き鍾提(しょうてい)まで撤退させました。魏では、姜維を撃退した事で安堵のムードが広がり、暫くは姜維も攻めてこないだろうから、軍を縮小してはどうかという意見が出ます。

 

鄧艾が指摘する姜維が近いうちに再び攻めて来る理由

鄧艾が指摘する姜維が近いうちに再び攻めて来る理由

 

そんな楽観論に対して鄧艾は真っ向から反対意見を述べます。

 

「君達は姜維を撃退した事で慢心しているが、事実は敗れたのは我が軍であり勝利の勢いがあるのは、姜維である。

 

第一に、洮西の敗北により我が軍は数万の将兵を失い、食糧庫は空になり住民は戦災を逃れて離散した、これはすぐに回復できる小さな敗北ではない。

 

第二に、姜維の将兵の武器は鋭利であり、訓練も行き届いているが、こちらは、王経に指揮を代わったばかりで兵も前線に慣れていないし訓練も不足だ。第三に、船でやってきた姜維と違い、我が軍は長い陸路を旅していて、兵の疲労は姜維の軍とは比較にはならない。第四に、姜維はどこでも攻めこむ場所を選べるが、こちらは大軍を複数の拠点に配置しないといけない、これは兵力を分散する行為であり兵法が戒める点だ。第五に、蜀は食糧不足に悩んでいるが、我が方の祁山は穀倉地帯であり豊富に実った麦が収穫でき姜維はそれを欲しがるだろう。

 

以上五つの理由により姜維の再侵略は早い時期に来る、備えを怠るな」鄧艾の予言は当たり、翌年、西暦256年に姜維は祁山を攻めますが、備えを万全にしていた鄧艾は、これを散々に撃ち破りました。その後も、姜維は何度も魏領地に進攻しますが、全て鄧艾に阻止されます。鄧艾は最強の姜維キラーだったのです。

 

 

鄧艾、剣閣を迂回して成都に迫る

鄧艾、剣閣を迂回して成都に迫る

 

西暦263年、晋王司馬昭(しばしょう)は蜀の弱体化を見て取り、いよいよ蜀征伐に挑みます。魏の軍勢は16万人、本隊の10万を鐘会が、そして残りの6万を鄧艾と諸葛緒(しょかつしょ)で半分ずつに分けて3方向から侵攻します。またしても姜維は鄧艾の作戦に苦戦を強いられますが、諸葛緒の隙を突いて、撤退に成功し、難攻不落の剣閣に立て籠ります。

 

ここに、ようやく成都から派遣された増援部隊も間に合い、姜維は剣閣で頑強に抵抗したので、16万の大軍を擁する魏軍も歯が立ちません。

 

鐘会「これでは駄目だ、食糧が乏しくなる前に撤退しよう」鐘会は弱気になりますが鄧艾は、猛反対します。

 

鄧艾「剣閣に籠られたとはいえ、戦争自体は、我が軍が押し気味です。この勢いを殺さず、一気に攻めるべきです。剣閣を無理に抜かず、命懸けではありますが険しい峡谷を抜けて涪(ふ)にいたり、成都の前に出るルートを使いましょう」

 

鄧艾は、そのように上奏して自ら剣閣を迂回する別働隊の役割を買って出ます。3万の軍勢は、谷底を敷物にくるまって転がり、急斜面を上り、時には岩を砕いて、トンネルを掘りながら、必死に迂回路をくぐり、ついに剣閣を抜けて涪に入り綿竹関に進軍、成都の最後の守りである諸葛瞻(しょかつせん)の軍勢を破ります。

 

最後の守りである綿竹関が落ちたのを知った劉禅(りゅうぜん)はあっさり降伏、ここに40年余り続いた蜀漢は滅亡しました。

 

鄧艾、得意絶頂で司馬昭に疑われる・・

鄧艾、得意絶頂で司馬昭に疑われる・・

 

蜀を降伏させた鄧艾は得意絶頂でした、曹真(そうしん)、司馬懿、多くの名将が、これを攻略しようとして出来なかった事を成し遂げたからです。鄧艾は、蜀の名士達を集めて、盛んに自分の手柄を自慢しました。

 

「お前達は、私に攻められて幸運だったな、これが後漢の光武帝の家臣の呉漢(ごかん)のような粗暴な男なら、こうして安閑とはしておれまい」

 

呉漢とは、後漢を建国した光武帝、劉秀の28名の名将の一人に数えられる人物ですが、蜀を制圧した時に、行き過ぎた虐殺をして光武帝に叱られていました。自らを後漢の名将より上と誇る鄧艾を蜀の名士は「成り上がり者の自惚れ屋」と内心馬鹿にしたと言います。

 

一方で鄧艾は、休む間もなく呉を討伐すべきと考えて停滞した蜀の農業を立てなおし軍船を造らせるなど、司馬昭の命令を越えた行動を取り始めます。特に、劉禅を司馬昭に断りもなく、再び王に据えて蜀の統治に利用しようとした事は司馬昭の不興を買いました。

 

「将軍は、自分の役割をわきまえるべきだ、勝手な行動は慎むように」

 

しかし、鄧艾は、それで恐れ入るどころか反論の手紙を送ります。

 

「戦場を遠く離れた洛陽の命令を待っていては勝機を失います。故に将軍は、一度国を出れば君主の命令に従わない場合もあるものです」

 

鄧艾には謀反の気持ちも反逆の気持ちもなく、ただ一生懸命だったのですが、この手紙で鄧艾は司馬昭に猜疑心を抱かせてしまいます。

 

鐘会、鄧艾を讒言、そして鄧艾の最期

鐘会、鄧艾を讒言、そして鄧艾の最期

 

この司馬昭の猜疑心を見逃さない男がいました、鄧艾に蜀討伐の手柄を奪われた鐘会です。鐘会は、成都で独立して天下を狙う野心から鄧艾を陥れようとします。

 

「鄧艾は、蜀で民心を懐かせて王になるつもりです、手遅れにならない間に処分の命令を」鐘会は、司馬昭に伝令を出し、司馬昭は鐘会に鄧艾を逮捕するように命じます。

 

鄧艾は、突然、衛瓘(えいく)によって逮捕され、反逆罪の罪状を告げられます。

 

鄧艾「ああ、私は忠臣であった、、白起の運命が私にも降りかかったのだ」

 

ただ、魏の天下統一に必死だった鄧艾は、こうして息子の鄧忠(とうちゅう)と共に捕えられ罪人用の護送車に乗せられ、魏の都、洛陽へと強制送還されます。鄧艾が成都を出発した直後、鐘会は姜維と計って蜀で独立しようとしますが、失敗して、姜維諸共殺害されました。

 

鄧艾の支配下にあった兵は護送車を追い掛けて、鄧艾と鄧忠を解放しました。しかし、それを知った衛瓘は、いつか鄧艾を逮捕した自分が鄧艾と鄧忠に仕返しをされるのではないか?と恐れ、鄧艾を恨んでいた田続(でんぞく)という男を唆して軍勢と共に、鄧艾を追跡させました。田続は、鄧艾と鄧忠親子を見つけて斬殺しました。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

極貧の境遇から成り上がり、蜀を滅ぼした名将、鄧艾。しかし、その上昇志向の強さと自己顕示欲が司馬昭に不信感を抱かせました。鄧艾の死後、洛陽にいた鄧艾の子供達も連座で殺され、妻と孫は、死罪を免れ辺境に流罪になります。

 

ですが、司馬昭を継いで魏を倒し晋王朝を開いた司馬炎は、「鄧艾の行動は反逆ではあるが、情状酌量の余地はある」として、辺境に追放した妻と孫を洛陽に呼び戻し後継者を絶やさないように命じたと言います。最後に一族全滅しなかったのがせめてもの救いですが、鄧艾、誰にも届かない大手柄の割に切ない最後でした。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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