秦の始皇帝ってどんな人だったの?青年期編

2015年9月11日


 

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大商人、呂不偉(りょふい)の思惑で貧乏王子と踊り子の間の子から、一躍、秦国の少年王となった秦王政(せい)しかし、政治の実権は、呂不偉が握っており、政は忍耐の時期を送る事になります。

 

前回記事:秦の始皇帝ってどんな人だったの?幼少期編

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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鳥かごの中の少年王

始皇帝

 

13歳で王になったとはいえ、政治の実権は、政にはありませんでした。後見人として、荘襄(そうじょうおう)の妃であった趙妃が太后として頂点に立ち、実際の政治は丞相である呂不偉が行います。政に、何か考えがあっても呂不偉や太后の反対があれば、押し切る事は出来ず、また、それを実行させる為の腹心も政にはいませんでした。政はただ、鳥かごの中の少年王として忍耐の時を送ります。

 

呂不偉の醜聞を機会に政治の実権を握る秦王政

呂不韋

 

しかし、盤石と思えた呂不偉にも外に出ては致命傷になる醜聞がありました。政の母である太后との不義密通です。元々は、呂不偉の愛人だった太后は、淫乱な性質で夫である荘襄王を失った事で肉欲をもてあまし、呂不偉に関係を迫ったのです。これを断れない呂不偉は、関係を再開しますが、老齢に達した呂不偉では、太后を満足させるのは難しかったのです。

 

呂不偉は、嫪毐(ろうあい)を後宮に贈る

嫪毐 ろうあい

 

事が露見する事を恐れた呂不偉は、嫪毐(ろうあい)という巨根で、精力絶倫の男を見つけ出し、これを宦官と偽り太后にあてがう事で、危機を乗り切ろうとします。ですが、嫪毐は、太后の寵愛を受けて増長し、しかも、太后も身ごもって嫪毐の子を産むという事態になり、事実は政の耳にも入ります。紀元前238年、政は22歳の青年になっていました。嫪毐は、挙兵して政を討とうとして敗れ、その背後に、呂不偉がいた事も、明るみになります、政は、呂不偉の功績を考えて、いきなり処刑には、しませんでしたが、呂不偉の権力を徐々に削いでいったので将来を悲観した呂不偉は自ら毒を飲んで死亡しました。これにより、政は誰にも拘束されず自分の意志で政治を行う事が可能になります。

 

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秦王政、李斯、蒙恬、信、尉繚、王賁のような若い才能を見出す

キングダム 政

 

呂不偉が死亡した頃、巨大なダムを建設していた鄭国(ていこく)という男も、韓のスパイであった事が分かるなど秦では外国人の追放運動が起きます。

 

李斯

 

ところが、呂不偉の配下であった、楚人で法律の専門家である李斯(りし)は、これまで秦が外国人の意見を入れて発展していった事実を述べて、追放運動に反対しました。政は、李斯の意見書の理路整然とした内容に感心して、追放令を撤回すると同時に、李斯を重臣として扱います。

 

蒙恬

 

そればかりではなく、蒙恬(もうてん)や、王賁(おうほん)李信(りしん)というような若手の将軍も見出して引き立て競うように六国を討伐させています。

 

項燕

 

特に、李信と蒙恬は、項燕(こうえん)を相手に大敗して20万の兵力を失ったにも関わらず、罪を不問にしている事から、政が、かなり個人として気に入っていたのでしょう。

 

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政に多大な影響を与えた韓非(かんぴ)

韓非

 

その頃、秦王政は、韓非子(かんぴし)という書物に心を奪われていました。韓非(かんぴ)は実在の韓の王族でしたが、その思想は性悪説に基づき、その場の雰囲気に左右され不確かである義理とか人情ではなく、何者にも動かされない厳格な法こそが強い国を造ると説いています。

 

韓非の本を熟読して感銘を受ける嬴政(始皇帝)

 

また、世の中を腐らせるものを儒・俠・賄・商・工であるとしていて、この中の儒が、やたらと古い時代の理想を重んじて現在を罵倒する儒学者への批判になっていたので、政は大いに共感して、これが後に秦の政治を批判した儒学者を生き埋めにする焚書坑儒(ふんしょ・こうじゅ)に繋がっていったようです。韓非は韓の政治に絶望して自分の手腕を売り込もうと秦に来ましたが、同門だった李斯に危険視され牢獄に繋がれ毒をあおり死にました。ですが韓非の思想は秦王政の考え方の背骨になっていきます。

 

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秦王政、六カ国を切り取りに乗りだす

キングダム 戦国七雄地図

 

紀元前230年、政は韓の都、陽翟(ようてき)を陥落させて王を捕えます。これにより韓は滅亡しました。次いで、その2年後、秦軍は、王翦(おうせん)、羌瘣(きょうかい)を送り込み、趙を攻めます。

 

※、この羌瘣は、トーンタントンはしない。

 

趙は弱体化していましたが、司馬尚(しばしょう)と李牧(りぼく)という名将がいて、これを防ぎます。しかし、秦は佞臣の郭開(かくかい)に多額の賄賂を送り

暗君の幽穆王(ゆうぼくおう)に讒言させます。幽穆王は、司馬尚を更迭、李牧は命令に従わないので捕えて殺します。これにより名将が消えた趙はあっさり滅亡します。

 

※その後王族の趙嘉が代に逃れて臨時の政権を建てるがこれも紀元前222年には滅亡。

 

嬴政(始皇帝)

 

秦王政は、産まれ故郷の趙の都、邯鄲に入ると、母の大后の実家と揉めていた人々を探し出し、生き埋めにして殺戮します。ここに政の暗い執念深さを見る事が出来ます。

 

燕、刺客として荊軻を差し向けるも暗殺に失敗、滅亡を早める

荊軻

 

六国の韓と趙が滅んだ事で危機感を持った燕の太子丹(たん)は、刺客を使って、政を暗殺しようと企みます。

 

秦王に会見で近づく荊軻

 

その刺客である荊軻(けいか)は、燕の本拠地の地図と秦から亡命した将軍、樊於期(はんおき)こと桓騎(かんき)の首を手に政と面会しますが、間一髪で暗殺に失敗し、政に切り刻まれて絶命します。怒った政は、燕に攻め込み、紀元前226年に燕の首都は陥落します。太子丹は身柄の引き渡しを求める秦の圧力に屈した燕王喜(き)が殺してしまいました。

※燕王喜も、この五年後に遼東で秦に捕えられ燕は滅亡します。

 

逃げる秦王政を追いかける荊軻

 

政は死の恐怖を味あわされた憎しみが止まらず、荊軻の一族を皆殺しにした上に、同じ村の出身というだけでその村の人間をすべて殺しました。次に、政は、将軍、王賁を使わして魏を攻めます。

 

信陵君

 

元々は、戦国四君、信陵君(しんりょうくん)がいて強かった魏ですが、信陵君が秦の謀略で遠ざけられて病死すると、かつての勢いはありませんでした。王賁は、魏の都、大梁(たいりょう)を水攻めにします。魏は3カ月持ちこたえますが、紀元前225年に魏王は降伏して滅亡します。

 

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楚の項燕、意地を見せるもベテラン王翦に敗北

ボロボロになりながらも戦う信

 

紀元前223年、政は信頼の厚い、李信と蒙恬の二人に20万の軍を与えて楚を攻めさせます、最初は快進撃を繰り広げますが、背後から追ってきた、項燕の軍勢に撃破され20万の大半が戦死するという大打撃を受けます。

 

罠を仕掛ける王翦

 

項燕は、この勢いを駆って、そのまま秦まで攻め上りますが、ベテランの王翦が防戦に徹して楚が疲労するのを待ってから迎撃、60万の大軍で、楚軍を撃破してそのまま、楚に侵攻して楚王 負芻(ふすう)は捕虜にされ楚は滅亡します。

 

最後の七雄、斉は戦わずに降伏、政は全土を統一する!

「斉」の旗を持った兵士

 

紀元前、221年、政は最後に残った、斉(せい)に軍を派遣します。しかし、40年間、戦をしなかった斉は、秦に買収された后勝(ごしょう)が、斉王を説得し、ついに一戦もしないまま、秦に降伏します。これは、政の配下である軍事顧問、尉繚(うつりょう)の買収作戦の賜物でした。こうして、紀元前221年、500年続いた春秋戦国時代は、秦王、政によって収拾され、ここに中華は秦帝国という統一王朝の支配に纏まる事になったのです。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

呂不偉という大商人の野望により王への道が開けた政が、今度は、自身の野望の為に呂不偉を殺すのは、運命の皮肉を感じます。自分の手で政治を行えるようになった政は、持ち前の才能があるものは身分に関係なく引き立てるという柔軟性から多くの人材を得ました。同時に、自分に逆らうモノは容赦しないという残酷な性格も、見え隠れしてきています。とうとう、中国を統一した政、今後、どうなっていくのでしょうか?

 

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