曹丕が建国した魏ってどんな王朝でどうやって滅びたの?

2015年10月11日


天下三分の計

三国時代の中で最も巨大な国は(ぎ)でした。

漢王朝復興を目指し孔明(こうめい)は強敵に対して天下三分の計を劉備(りゅうび)に授け、呉と協力をし魏を滅ぼそうと目論みます。

 

三国志地図

 

魏の領土が中原の3分の2を占め、人口は2千600万人あまり。

呉は、長江以南の地帯を治め、人口は1千数百万人あまり。

蜀は、現在の四川省のあたりを治め、人口は数百万人あまり....

 

極端な例え方をすると、「アメリカ合衆国が魏」「日本が呉」「ハワイが蜀」

魏は他の国との規模も歴然とし、兵力とも圧倒的優勢でした。

 

さて、それほどの強国・魏は一体どのようにして建国され、

統一を前にして魏は何故、滅んだのか。

 

魏の建国に、深く関係している奸雄・曹操孟徳と一緒に魏についてご紹介します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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日本でも馴染み深い魏王朝

司馬炎 はじめての三国志

 

魏は正史では正統とされ、220年に後漢王朝から帝位を譲り受けてから、

265年、司馬炎禅譲(※帝位を譲ること)するまで5代に渡り45年しか続かなった王朝。

 

日本では魏は卑弥呼を記述した魏志倭人伝でも知られており、横山光輝氏の三国志では、魏王朝を悪役で描かれてるので知名度も高い王朝ですね。

 

魏のベースを築き上げたのは曹操とも言われています。

魏の創業者・曹丕(そうひ)曹操から財産を受け継いだことにより

比較的スムーズに三国時代に魏王朝が誕生しました。

 

さて、曹丕が受け取った財産、地位、人材を曹操はどうやって築き上げたのでしょうか?

 

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189年・若き曹操は董卓討伐で名を上げる

反董卓軍010

 

189年、曹操は諸侯とともに董卓討伐を全国に呼びかけ、反董卓連合軍が誕生します。

反董卓連合軍には袁紹を筆頭に、孫堅公孫瓚馬騰袁術と続々と各地から豪傑が集まり、オールスター感謝祭並みの豪華メンバーでした。

 

これでほどの豪華メンバーが集まっても、同族の袁紹と袁術の対立が生じ、次第に反董卓連合軍は崩壊。

董卓征伐は失敗に終わりました。

反発しあう袁紹や袁術とは違い、曹仁曹洪夏侯惇、夏侯淵といった曹操一族の強力な血縁を有してたことも曹操の強みでした。

 

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191年 参謀・荀彧が曹操配下に加わる

荀彧 立ちノーマル

 

この年には早くも清流派知識人であった荀彧(じゅんいく)が曹操陣営に加わります。

曹操は、「おお!わが子房(しぼう)がやってきたぞ」と、漢の建国者・劉邦(りゅうほう)の軍師であった張良(ちょうりょう)子房だと荀彧を迎えて嬉しさを爆発しています。

 

荀彧は人を見る目もあり、郭嘉荀攸など軍事や内政面で活躍する名士達を推挙。

のちに晋王朝の創始者でもある司馬懿を推挙したのも、荀彧なのです。

曹操陣営のもとに優秀な人材が集まり、後の中心メンバーにもなります。

 

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192年 黄巾賊の残党を降伏させ青州兵誕生

曹操 黄巾党が仲間に!

192年には黄巾賊の残党を降伏させました。

残党を自軍に取り込みたいと考えた曹操は、彼らから提示された条件①②③を呑んで、その戦力を手中に収めます。

 

①太平道を信仰する自由を認めること

②軍団を別の土地の兵と混成しないこと

③曹操が死んだら自分達を自由にすること

 

曹操は吸収した黄巾賊から精鋭を選び出し、これを「青州兵」と名付け戦力として活用しました。

青州兵は曹操軍の重要な戦力といて各地を転戦、功績を上げ魏建国の土台造りに大きく貢献します。

 

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196年 曹操は献帝を保護

曹操躍進

 

献帝が洛陽に帰還するという情報を聞きつけた曹操は早速、献帝を保護するために動きます。

この頃、袁紹の参謀も天子を迎えることを進言したが、袁紹がためらっている間に曹操が身柄を確保し、許へ遷都(せんと)。

曹操は献帝を手に入れたことにより、自分に歯向かう敵は朝敵とみなし、官軍という大義名分を得ます。

 

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210年 求賢令(きゅうけんれい)を曹操が発布

抜き出た曹操

 

曹操は袁術呂布、袁紹らを滅ぼした一方、敵の配下に才能あるものがいれば積極的に自軍に取り入れています。

張遼賈詡張郃などがその代表格です。

 

曹操の人材蒐集癖はとどまる所を知りません。

才能さえあれば誰も登用する!と天下にあまねく知らせが行き渡り

曹操の元に多くの人材が更に集まりました。

これまでに集まった人材という財産は曹丕に受け継がれていくのです。

 

曹操が求賢令を発布し、人材を手なづけたのは曹操のずば抜けた統率力による芸当ですね。

 

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屯田制を取り入れ兵量を確保

兵戸制

 

曹操は天下統一を果たすためには、強力な軍隊が必要であり、そのためには十分な食料を確保する必要があると、農業の重要性を説きました。

既に最強の軍隊を保持している曹操は、さらに民を募集し、土地や農具、種もみまで貸し与えて、許都の周辺で屯田させ、計画して食料を生産し、貯蔵に成功。

こうして四方を征伐するのに十分な食料を確保し、三国志最大の国へと発展しました。

 

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208年 丞相に就任した曹操

曹操丞相えらいねんで!

この年は赤壁の戦いで劉備と孫権による連合軍に敗れてます。

同年、曹操・丞相(じょうしょう)に就任。

丞相は君主になりかわり、国政の全てを司る最高執政官です。

日本でいう総理大臣のポジションで漢王朝内でも曹操の権力は更に増していきました。

 

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213年 魏公に就任

現実主義曹操

赤壁の戦いで負けて以降、晩年の曹操は、天下統一よりも内部統制に力を入れ始めます。

213年に魏公の位に立ちました。

 

これには権力に執着した曹操の魏公即位に荀彧(じゅんいく)は猛反対。

長年ともに戦った荀彧は曹操との間にも亀裂が入り、やがて自殺します。

曹操の重臣達も、漢王朝に仕えるのではなく、名目上、魏公に仕えるようになり

後継にそのまま人材を渡す下準備にも入りました。

 

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216年 魏王に就任

曹操 死

自身の地位が権力に見合わっていないと考えた曹操は、

さらなる上の位につくことを求めました。

丞相→魏公→魏王と、着々と権力を高め、曹丕を太子としました。

曹操はもやは、後漢を滅ぼす気は満々ですね。

 

もはや帝位を奪うところまで来ていました。

いよいよ、魏王朝が見えてきましたね。

 

 

220年 曹丕が魏を建国

曹丕

 

帝位を奪うところまできた曹操でしたが、最後まで「漢の忠臣」という建前を通して、結局帝位には就かず没し、後継者に長男の曹丕が選ばれました。

 

曹操が亡くなった8ヶ月後に献帝に禅譲を迫り、帝位に即位しました。

西暦220年、後漢の200年以上の歴史に終止符が打たれ魏王朝が誕生することになったのです。

 

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249年 司馬懿がクーデターを起こす

司馬懿

 

荀彧が推挙した司馬懿がクーデターを起こします。

クーデターに成功した司馬懿は、曹爽を陥れ反逆の罪をきせて三族皆殺しにしました。

こうして曹一族は衰退し、実権が司馬氏へと移ったのです。

251年に司馬懿は死去し、実権が息子の司馬師、司馬昭へと受け継がれていきます。

 

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254年・257年・260年、魏内で反乱が勃発

 

254年、張緝や李豊らが司馬師の排除計画に失敗。

256年、魏でもかなりの優秀だった諸葛誕(しょかつたん)が反乱を起こすが、いずれも鎮圧され、司馬師はこの機会に反対勢力を一掃。

260年、魏の第4代皇帝 曹髦(そうぼう)司馬昭を討伐しようとして、数百人の側近を引き手出撃したが、失敗。

 

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264年 司馬昭は晋王になる

 

前年、263年に鄧艾鍾会が蜀漢を攻めて、蜀を滅ぼし、魏と呉のみになります。

264年、司馬昭を晋公から晋王になり、いよいよ漢と同じように、

魏の滅亡が見えてきました。

 

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265年 遂に魏が亡くなり晋の誕生

 

魏の5代目皇帝 曹奐(そう かん)が最後の皇帝になります。

曹奐は司馬昭に帝位を譲ろうとしましたが、司馬昭が急死し、息子の司馬炎の代に

皮肉にも漢から魏王朝の時と同じ方法(禅譲)によって晋王朝が誕生し、魏は滅びました。

後に、晋の初代皇帝・司馬炎が呉を滅ぼし三国時代に終止符を打つのです。

 

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魏という王朝や政権について

曹丕 残忍

 

結局、魏は5代に渡り45年間しか続きませんでしたが、「魏」というのは元来、中国古代の都市国家の一つであり、春秋戦国時代から魏という名の国家は存在していました。

この後も、五胡十六国時代にも冉魏、翟魏の政権も誕生しますし、南北朝時代には北魏という名の王朝も経てられます。

今回ご紹介した曹丕が建てた魏王朝は曹魏とも言われています。

 

 

はじさん代表のおとぼけの独り言

スタッフおとぼけ

 

 

やぁ、兄弟。いかがだったかい?

統一を前にして晋への王朝交代劇が起こりますが、実質、生前の曹操の基盤が三国統一を成し遂げたと言っても過言ではありません。

そこで今回は曹操の挙兵から紹介をし、着々と土台を作って権力を曹丕に譲るところまで詳しく説明しました。

 

それにしても、200年続いた後漢と45年続いた魏を比較すると、魏滅亡の早さには驚きを隠せません。どうしてこんなにも早く滅びたのでしょうか?

 

はじめての三国志代表のおとぼけの浅はかな考えの一つとして、曹丕の早死が滅亡の針を進めたのではないか?と思っています。

 

曹丕と言えば、献帝に禅譲を迫ったり、魏に帰還した于禁を憤死させたり、甄氏に死を賜ったり、

曹植との後継者争いで一族を弾圧し皇族の力を弱めたことなど曹丕の評判は非常に悪いですよね。

 

はじさんでも冷酷ネタにされる曹丕ですが、実は曹操の遥かに上を行く政治政策を曹丕は行っていました。

通信インフラを整えるために、郵駅令を制定し、これは中国史上初めての郵政法です。

 

他にも、外戚の政治関与を禁じる勅を発したり、

私刑や仇討を禁じて社会秩序を維持するなど後漢末の弊害や混乱によって引き起こされた社会問題を収拾しようとしていました。

この事から曹丕の時代が最も安定した時代でしたが、在位わずか6年で病死してしまい、政権がまだ確立しないまま後を継いだ曹叡(そうえい)。

 

この隙に孔明が北伐の侵攻を受け、政治基盤が安定しないまま、曹叡も早死。

曹叡の後継者の曹芳は、この時はわずか8歳でした。

司馬懿を重要視した曹丕がなにかと目立ちますが、曹丕が早死せず、しっかりと魏王朝の基盤を構築すれば、

司馬一族の台等を防げてたのではないだろうか?と個人的には思っています。

皆さんは、どうしたら魏王朝はもっと長く存続できたと思いますか?

 

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otoboke

数々のブレストと思いつきで場を散らかした後、権限委譲と言い放ち、kawauso編集長に丸投げし去っていく。インターネットの不特定多数無限大の可能性にロマンと情熱を捧げる「はじめての三国志」の創設者。創造的で自由な発想が称賛や批判を創発し、心をつかむコンテンツになると信じている。各メンバーのパーソナリティを尊重し、全員の得意分野を活かし、補完し合うチーム作りを目指している。

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