項羽(こうう)ってどんな人?史上最強の孤独な戦術家 Part.2

2015年10月24日


 

項羽 はじめての三国志002

 

叔父項梁との二人三脚で、反秦連合軍の中核になった項羽、しかし、

これからという所で、項梁は秦の章邯の手で殺されてしまいます。

 

独りになった項羽は、叔父の死後に実権を握った宋義を殺し、総大将の地位を

掴むと、怨敵章邯を破り、秦の帝都、咸陽に入城して秦を滅ぼします。

そして、自分達で建てた楚の懐王を追放して殺害、自ら西楚の覇王を名乗りました。

が、項羽の論功行賞は不公平であり、再び中国は戦乱の中に落ちるのです。

 

前回記事:項羽(こうう)ってどんな人?史上最強の孤独な戦術家 Part.1

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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子供のような項羽、首都を故郷、楚に置く

項羽

 

西楚の覇王となった項羽に、群臣は、首都を咸陽に置くように進言します。

秦帝国は、すべての情報を咸陽に集めるようにしていて、この地点に都を置くのが

様々な面において便利だったからです。

しかし、項羽は首を縦に振らず、都を楚の領地であった徐州の彭(ほう)城に置きます。

不思議に思った群臣が理由を聞くと、項羽は言いました。

 

項羽「人間、出世した時、それを一番に喜んでくれるのは故郷の人々だ、

辛気臭い、他所者の秦の人間などではない。

この咸陽からでは、楚の人々は覇王になった余の姿を見るには遠い、

それは、あたかも豪華な衣装を着て闇夜を歩くようなものではないか?」

 

これを聞いた群臣は空いた口が塞がりませんでした。

政治的な重要性より故郷の人に認められたい、項羽の子供のような理屈に

賢臣は戦慄し、西楚の将来を危惧します。

 

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相次ぐ、反乱に劉邦も挙兵する

劉邦

 

項羽が群雄といたちごっこを繰り広げている間に、劉邦は、押し込められていた

僻地、漢中から脱出し、章邯達、三秦の王を滅ぼして咸陽に入りました。

咸陽では、自分達を保護してくれた劉邦への人気が高く、また、穀倉地帯でもあり

長い間、反項羽の劉邦軍の拠点として機能する事になります。

ここでも、項羽は自分の判断ミスで劉邦に力を与えてしまいます。

 

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自分のみを信じ、猜疑心が強い項羽は次第に孤立する

張良㈬ 鴻門の会編05 項羽

 

 

紀元前206年、劉邦は、項羽が楚の懐王を殺した事を不義不忠の極みとし

反項羽の軍を挙げます、ここから3年間に渡る楚漢の戦いが始まりました。

 

当初から、最後まで劉邦軍は、項羽の本隊に連戦連敗します。

一時は56万という大軍を揃えた劉邦が、たった3万の項羽軍に敗北して

崩壊した事さえありました。

 

劉邦個人も、項羽の追っ手に追われ、馬車1台で逃げながら妻が項羽軍に捕まり

やけになって、二人の息子を馬車を軽くする為に放り投げた事さえあります。

しかし、それでも、劉邦は、関中から絶えず兵糧と兵士を送り込んでくる

䔥何(しょうか)や、別働隊として、項羽や中立の城を次々と陥落させる

大将軍韓信(かんしん)、幕僚として、数々の策略を成功させる張良(ちょうりょう)や

陳平(ちんぺい)により間一髪を救われます。

 

一方の項羽は、戦争が進むにつれて、次第に家臣が離れていきました。

名軍師の范増とは仲違いし、猛将黥布は猜疑心から劉邦側に追いやり、

元々は項羽の陣にいた韓信の才能を見抜けず、これも劉邦にくれてしまいます。

 

幾ら強くても、周りが従わないのでは、項羽も息切れを起してしまいます。

項羽は、反逆者を許さず徹底して殺戮したので反乱を起した城の抵抗も熾烈でした。

そうまでして、屈服させても項羽がその場を離れるとすぐに離反します。

 

恐らく項羽も、何で自分が連戦連勝しているのにおいつめられているか

理解出来なかった事でしょう。

 

呂布対項羽

 

項羽、劉邦と和睦、しかしそれは罠だった・・

劉邦と項羽

 

3年に渡った楚漢の戦いは、両軍を消耗させました、有利になりつつあった

漢も、劉邦が項羽に弓矢で狙撃されて重傷を負うなどがあり、

中国を二分して、西を漢、東を楚としてお互いに干渉しないという和睦案を出します。

 

項羽はこの案に乗りますが、もちろん守るつもりはありません。

一度、本拠地に下がり、補給を行った上で再び漢を攻めるつもりでした。

 

しかし、この和睦は実は漢の罠でした、すっかり安心して、背後を見せて、

故郷に帰ろうとしている楚の軍勢に、漢軍は襲い掛ったのです。

疲れ果てていた楚軍は、勢いに勝る漢軍に次々と倒されていきました。

 

項羽は血路を開き、垓下(がいか)という古い小さな城に

700名余りの手勢と立て籠りました。

 

 

項羽の耳に故郷、楚の歌が聞こえる

項羽

傷だらけでボロボロの兵と共に、垓下城に入った項羽、太陽が落ちて、

星空が出た頃、どこからともなく、項羽の耳に故郷、楚の歌が聞こえてきました。

 

項羽「おお、故郷の歌ぞ、流石は我が兵達よ、これだけ傷つきながら、

尚も、故郷の歌を口ずさむ力があろうとは・・」

 

ところが、それは項羽の勘違いでした、楚の歌は、城の中ではなく、

城の外、自分達を包囲している漢軍の中から聞えてきていたのです。

城の中の楚軍の兵から嗚咽が漏れました、項羽も頬を伝い涙が溢れるのを

止める事が出来ませんでした。

 

項羽「そうか、、故郷の人々までが、敵として余を取り囲んでいるのか・・」

 

項羽は、悲しみを抑えきれず、酒をあおり、一節の舞いを披露します。

 

「力山を抜き、気世を蓋う、時利あらず、騅行かず、

騅ゆかざれば如何にせん、虞や、虞や汝を如何にすべし」

 

※私の力は山でさえ動かし、その気力は世界を覆う程だ、、

それなのに天は私に味方しなかった。

今では愛馬の騅も動こうとしない、騅が動かないなら、

私はどうやって戦えばいいのか?

虞よ、虞よ、私はお前をどうすればいいのか・・

 

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項羽の最期・・

悲劇の英雄 項羽1

項羽は、翌朝、愛馬騅(すい)に跨り、垓下城を出ました。

目の前に広がるのは、大海のような漢の旗です。

そう、項羽の敗北が明らかになると、中国全土の諸候は漢になびき、

今や、42万という大軍になっていたのです。

この間まで項羽になびいていた人々が今は劉邦、浅ましい限りですが、

これが戦国の世の習いというものでしょう。

 

項羽「聞けィ!漢の泥ゴミ共! わしは貴様達に敗れるのではない!

天がわしを滅ぼすのだ、自惚れるでないぞ!!

その証拠に、これより、この項羽、貴様らの包囲を突破して見せよう。

阻めるものなら、阻んでみるがいいっ!!!」

 

項羽は、騅の腹を蹴ると、洪水のような漢軍のド真ん中に突撃しました。

そして、最後の力を振り絞り、手当たりしだいに漢の兵を斬り捨て、

人間の洪水を押し戻していきます。

 

項羽の首には、大金が懸っている事もあり、大勢が殺到して身動きが

取れなくなった事もあり、項羽は宣言通り、漢軍の包囲を突破します。

 

やがて、項羽は長江のほとりまで来ますが、ここで船を用意して

会稽に戻り再起するように促した亭長の言葉を断ります。

 

項羽は、愛馬の騅を殺すにしのびないとして亭長に与えて、

自身は徒歩になりました。

 

項羽「はっはっは、、天よ!どうだ、わしは誰にも討たれなかったぞ」

 

項羽にとり漢軍の包囲を突破するのは、逃げるためではなく、

自分が人には討たれない、天が滅ぼすのだと証明する為だったのでしょう。

 

項羽の下に、追っ手の漢軍が追いつきます。

一番手は呂馬童(りょばどう)という男でかつて項羽の部下でした。

 

項羽「おう、呂馬童、久しぶりだのう、、今は劉邦の手先か?」

 

真っ直ぐに項羽に睨まれて、呂馬童は恥ずかしさの余り隠れました。

 

項羽「ここで会ったのも何かの縁、、よかろう、昔馴染みの貴様に

大手柄を立てさせてやろう」

 

項羽は、剣を振り上げると、立ったまま自分の首を刎ねあげました。

血煙を上げて地面に転がった項羽の首を呂馬童は即座に拾い上げ、

項羽の体も、後続の漢兵にバラバラに切り刻まれました。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

項羽は、その比類なき武勇と反比例した人徳の無さで長い間、

中国史を愛する人々の心を捕えてきた英傑です。

 

20万の軍勢を眉一つ動かさず殺戮できる非情さがある一方で、

殺すのにしのびないとして愛馬を逃がしたり、城外から聞える

楚の歌に故郷の人まで敵になったのかと素直に涙を流す。

そして、逃げようとすれば逃げられたのに生に執着せず、

あっさりと昔馴染みに首を与えてしまう潔い最後、、

 

司馬遷が書いた史記も、項羽の項がもっとも秀逸とされています。

昔から項羽の生き方に魅せられた人々はいたのですね。

 

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