【あるはずのない超技術】兵馬俑から発掘されたクロムメッキ剣はオーパーツなのか?現代科学でも説明困難な古代のロストテクノロジー(HMR)

2015年12月1日


 

兵馬俑

 

 

1974年、中国で秦の始皇帝の墓所である始皇帝陵(しこうていりょう)が発見された際、その陵を囲むように作られた兵馬俑坑(へいばようこう)も同時に発見されました。兵馬俑坑には、陶器製の実物大の兵士や馬の像(俑)が収められていました。その数はなんと8000体にも及びます。

 

兵馬俑 クロムメッキ

 

兵士の俑は青銅の剣を腰に帯びていました。この剣はクロムメッキが施され、発見された際、まったく錆びていなかったといいます。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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近代のメッキ技術

HMR隊長 石川克世

 

クロムメッキの技術は一般には1937年にドイツで発明されたものとして知られており、2000年以上前に造られた兵馬俑からなぜクロムメッキを施された剣が出土したのか謎とされました。今回、『はじさんミステリー調査班(HMR)』では、オーパーツ(その時代にありえない技術で作られたとされる遺物)とも言われる、このクロムメッキ剣の謎に迫ってみました。

 

秦の時代、メッキ技術はすでに存在していた

秦の旗を掲げる兵士

 

金属にメッキを施す技術それ自体は、秦よりも更に1300年ほど前、スズを使ったメッキがメソポタミアのアッシリアで行われていたことが知られています。メッキ技術を世界に広めたのは、スキタイの騎馬民族であると考えられています。彼らは金属製の馬具に装飾を施し、それに金メッキをしていました。彼らがユーラシア大陸一帯移動することで、金メッキの技術も広まっていったわけです。

 

中国でメッキ技術が用いられた時代

 

中国でメッキ技術が用いられるようになったのは、春秋戦国時代の後期でした。それはスキタイの金メッキ技術の影響を受けたもので、後漢時代に中国で仏教が広まると金メッキをした仏像が作られるようになります。この頃の金メッキは、金と水銀を混ぜて粘土状にしたアマルガムというものを仏像に塗って炭火で加熱、水銀を蒸発させて金だけを残すという方法で行われていました。

 

奈良の大仏はもともと金ピカだった

 

日本でも、奈良の大仏に同じ方法で金メッキが施されたことが知られています。大仏はもともと、金メッキを施された黄金の仏像だったわけです。しかし、あの巨大な大仏に金メッキを施すとなると、大量の水銀が必要でした。その大量の水銀を蒸発させたのだから、周囲に影響がでないはずがありません。大仏を作っていた頃、その周囲では疫病が蔓延し、大仏が完成するとそれが治まったので、人々は大仏の功徳であると喜んだそうですが、実はその大仏こそが疫病の原因だった可能性が高いとは、なんとも皮肉な話です。

 

なぜ、兵馬俑の剣にクロムメッキが施されたのか

 

つまり、メッキ技術そのものは、秦の時代にはすでにごく普通の技術として中国でも普及していたことになります。ただ、基本的にこの頃用いられていたのは金を使ったメッキで、その用途は主に装飾品であったと考えられます。クロムという金属は近代になってから工業用途で用いられるようになりましたが、古代にはその存在自体がほとんど知られていませんでした。メッキ自体は普通に行われていたものだとしても、なぜ、当時その存在が知られていなかったはずのクロムを用いたメッキが、兵馬俑に収められた剣に施されていたのでしょうか?そのヒントは、メッキに用いられるもうひとつの金属……水銀にあると思われます。

 

 

不死性の象徴としての水銀

司馬遷(しばせん)

 

兵馬俑には水銀を流し込んで作った海や川が形作られてことが、司馬遷の『史記』に記述されています。これは伝説と思われていましたが、始皇帝陵発見後の調査で兵馬俑から大量の水銀があった痕跡が発見され、事実であったことが確認されています。この時代、水銀はその不思議な性質から不死性を象徴する物質であると考えられていました。

 

不老不死 始皇帝

 

始皇帝は不老不死の妙薬を作らせるため、臣下に煉丹術(れんたんじゅつ。西洋の錬金術に似た学問)研究させ、自身も水銀を不老不死の薬と信じて服用していました。(詳しくは『始皇帝は不老不死を求めて何で水銀を飲んだの?』の記事をご参照ください)

 

錆びない剣に不死性を見出した始皇帝?

始皇帝 死ぬ

 

銅剣は年月が経つと錆びてしまい、いわゆる青銅色に変色、朽ちてしまいます。しかし、兵馬俑から出土したクロムメッキ剣の写真を見ると、作られたばかりの銅剣のような赤銅色をしていることがわかります。これはメッキされたことによって、錆びが防がれたものと考えられます。……ここからは完全に筆者の妄想になりますが。

 

始皇帝は朽ちてしまう銅剣を嫌ってた?

不老不死 始皇帝

 

始皇帝は、時が経てば朽ちてしまう銅剣を嫌い、クロムメッキ剣を作らせたのではないでしょうか?始皇帝は不老不死を望んでいました。死後もなお、その権勢を維持しようと兵馬俑を建設し、其の中に自分が生きていたのとまったく同じ世界を再現しようとしました。そこにあるものとして、錆びて朽ちてしまう剣はふさわしくありません。始皇帝の命によって煉丹術を研究していた臣下は、その過程でクロムを発見したのかもしれません。クロムメッキされた剣は、打ちたての銅剣そのものであり、しかもメッキの効果で錆びることもありません。

 

不老不死を求める始皇帝

 

始皇帝はそこに、水銀と同じ不滅性を見出したのではないでしょうか?不死である自分が率いる兵士には、決して錆びて朽ちることのない武器こそがふさわしい。青銅のように錆びることのないクロムメッキ剣は、まさに始皇帝の望んだ武器だったのでしょう。

 

三国志ライター 石川克世の独り言

石川克世

 

中国史上初の皇帝として、並び立つもののない権力を手にした始皇帝。彼がその権力に執着し、永遠に自身のものとしようとした執着心が形となって残されたのが、あのクロムメッキ剣ではないのか……筆者にはそう思われます。それでは、次回もお付き合いください。再見!!

 

 

 

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石川克世

石川克世

三国志にハマったのは、高校時代に吉川英治の小説を読んだことがきっかけでした。最初のうちは蜀(特に関羽雲長)のファンでしたが、次第に曹操孟徳に入れ込むように。 三国志ばかりではなく、春秋戦国時代に興味を持って海音寺潮五郎の小説『孫子』を読んだり、 兵法書(『孫子』や『六韜』)や諸子百家(老荘の思想)などにも無節操に手を出しました。 好きな歴史人物: 曹操孟徳 織田信長 何か一言: 温故知新。 過去を知ることは、個人や国家の別なく、 現在を知り、そして未来を知ることであると思います。

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