【ポスト五虎大将軍】蜀の四龍将が生きていれば蜀は魏を倒せた?

2016年6月1日


 

趙雲

 

 

蜀と言えば、五虎大将軍が余りにも有名です。

しかし、この五虎大将軍の死後を引き継いで、蜀を防衛した

蜀の四龍将(しりゅうしょう)については、あまり認知度がないのではないでしょうか?

そこで、今回は知られざる、蜀の四龍将について紹介します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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蜀の四龍将って何?初耳なんだけど

四龍将

 

蜀の四龍将とは、王平子均(おうへい・しきん)

張翼伯恭(ちょうよく・はくきょう)張嶷伯岐(ちょうぎ・はくき)

廖化元倹(りょうか・げんけん)の4名です。

 

彼等は、劉備の入蜀後に配下に加わり、ある者は北伐を助け、

またある者は、孔明没後の蜀を防衛するなど、五虎将軍に劣らない

働きをして、蜀の命脈を繋いでいきました。

 

え?はい?だから、四龍将ってどこに書いてあるって?

どこにも書いていません、今、kawausoが命名したんです。

 

朝まで三国志 kawauso

 

だって、五虎大将軍だって、三国志演義の作者が創作したもので、

同時代には、そんな呼び名は無かったのです。

 

この四名は、時々四猛将という括りで呼ばれますが、

ポスト、五虎大将軍なら、せめてライバル的な龍でいいでしょう。

 

 

蜀の四龍将を簡単に紹介

表情 kawausoさん01

 

では、ポスト五虎大将軍の後継者とも言うべき、蜀の四龍将の経歴を

超簡単に紹介しましょう。

 

 

蜀の四龍将:王平子均(おうへい・しきん)

王平 四龍将

 

王平元々は魏将、異民族の板盾蕃(ばんじゅんばん)の出身とも言われる。

定軍山の戦いで、魏が敗れた時に蜀に降伏する。

戦争の連続で勉学するヒマもなく、書ける漢字は10文字程度

という文盲に近い人だったが、勝負勘は抜群。

特に街亭で、張郃に敗れて壊走した馬稷に代わって踏み留まり

孔明の本体に撤退の時間を稼いだ事で大きな評価を受ける。

 

西暦244年、魏の曹爽(そうそう)の10万の大軍を漢中の守備兵、

3万で迎え撃ち、これを撃退するという大手柄を挙げる。

 

関連記事:王平(おうへい)ってどんな人?馬稷の山登りを止めようとした蜀の武将

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蜀の四龍将:張翼伯恭(ちょうよく・はくきょう)

張翼 四龍将

 

張翼益州の出身、劉備の入蜀後に取り立てられる。

定軍山の戦いでは、趙雲に従い、大きな手柄を立てたとされる。

南夷支配に、大きな功績を上げたが、法令が厳し過ぎる事から、

南夷民族に不興を買い、交替させられて成都に帰還する。

その際に反乱を予期して後任の武将の為に、食糧と武器の備えを万全にした。

案の定、後任の馬忠の時に南蛮の反乱が起きるが、

馬忠は、張翼の備えに頼り見事に反乱を鎮圧出来た。

 

姜維の北伐では批判的だったが、最後まで参加した。

一方の姜維も批判的な張翼には不快感があったが、

その力は余人に変え難いので、黙って使っていたという。

 

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蜀の四龍将: 張嶷伯岐(ちょうぎ・はくき)

四龍将 張嶷

 

張嶷益州出身、貧家の生まれだったが、勇気は抜きんでていた。

劉備の入蜀後、南充県を山賊が襲う事件が起きる。

 

南充県令は、山賊の勢いを恐れて、妻子を捨てて逃亡(劉備みたい・・)

しかし、功曹だった張嶷は逃げず、山賊の白刃をかいくぐり、

見事に、県令の妻子を救いだした(趙雲みたい・・)

これを聞いた劉備は張嶷を重く用いるようになった。

 

その後は、上官の馬忠と共に、西南夷討伐と北伐に活躍、

遠征でチベット系羌族の討伐に辺り手柄を立てる。

一方で、恭順した異民族へは思いやりを尽くして接したので、

彼が帰還すると聞くと、彼等は車の車輪に縋って涙を流したという。

 

関連記事:張嶷(ちょうぎょく)とはどんな人?異民族討伐のプロフェッショナルだった蜀の将軍【前編】

 

 

蜀の四龍将:廖化元倹(りょうか・げんけん)

廖化 四龍将

 

 

廖化荊州の出身、正史に名前が出てくるのは、

関羽(かんう)の主簿を勤めていた時の事で西暦218年頃の事。

後に、関羽が呉の呂蒙(りょもう)に敗れると降伏する。

しかし、蜀に戻りたい一心で、自分は死んだというデマを流し

老母を背負って、蜀へと逃亡、そのまま夷陵の戦いに参加するという

忙しい人生を送る、性格は激烈で果断だった。

 

姜維が北伐を再開すると北伐を支えるが、魏将・郭淮(かくわい)

鄧艾(とうがい)を相手には大きな戦果を上げる事が出来ず、

晩年には北伐に拘る姜維に批判的だった。

 

彼等4人は、孔明の死後に、それぞれ、昇進して、左右車騎将軍、

鎮北大将軍に任じられたり、北伐、南征などで異民族の制圧に

大きな戦果を上げた優秀な武将ばかりです。

すでに、劉備も孔明も亡き後という事を考えても、四龍将と言うに

相応しい功績があると言えます。

 

悲惨!本当は七龍将になる筈だった!!残念な夷陵の敗戦

 

劉備

 

このように劉備(りゅうび)の死後、さらには孔明の死後、死に絶えた、

五虎大将軍に代わり、蜀を支え続けた、四龍将ですが、

本来なら、彼等は七龍将として、より大きく活躍した筈でした。

 

それを不可能にしたのは、西暦222年の劉備の大失敗、夷陵の敗戦です。

蜀軍を半壊させたこの敗戦では、馮習(ふうしゅう)張南(ちょうなん)

傅彤(ふとう)という五虎大将軍の後を受け継ぐ筈の三名の武将が戦死しました。

 

文官でも、白眉と言われた馬良が戦死しています。

彼が生きていれば、孔明は手足になる文官に悩む事も減ったでしょう。

 

特に馮習は、劉備に領軍将軍に任命された逸材でした。

三国志演義では、敗戦の責任を全て押しつけられていますが、

あの敗戦の責任の99%は劉備である事を考えれば、

貧乏くじを押しつけられた感じです。

 

彼等は、夷陵の敗戦で戦死したので、ほとんど功績が伝わりませんが、

生き残っていれば、後に続く四龍将の先輩として、蜀軍の戦力を

補強したであろう事は間違いありません。

 

3名が生きていれば、街亭の敗戦も、孔明と魏延の不協和音も無かった?

基礎知識 馬謖02

 

馮習、張南、傅彤が生き残っていれば、孔明は、馬稷(ばしょく)

街亭に置く事なく、また、五虎将軍亡き後の重鎮として、魏延(ぎえん)一人に

パワーバランスが傾いて、慢心が起こり、蜀の陣営に不協和音が生じる事もなく

楊儀(ようぎ)のような、そこそこ使えても人格的にアレな人材を

側に置くというような苦労もなかったと考えられます。

 

姜維と孔明

 

それどころか、自ら北伐を指揮する必要もなく、

成都で魏延姜維+七龍将に指示を出しながらより冷静で、

大局的な戦略を練る事も可能だったかも知れません。

そう考えると、夷陵における劉備の大ポカがとても惜しまれるのです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

こう書くと、三国志演義だけを読んでいる皆さんは、

あれ?関興(かんこう)や張苞(ちょうほう)は四龍将に加えられないのか?

と思うかも知れませんが、関興や張苞は、正史では大した活躍を

していないというのが実相です。

張苞は、張飛より先に死没し、関興は、馬良の後任として20歳で

抜擢され孔明に期待されるも、数年で病没しています。

本日も、三国志の話題をご馳走様でした。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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