魏の諸葛誕が反乱に失敗した原因ってなに?

2016年8月26日


 

諸葛誕

 

魏の王陵(おうりょう)、毌丘倹(かんきゅうけん)は魏の司馬氏が魏の政権を握って、

政権を私有化し始めると、司馬氏打倒の反乱を起こします。

しかし彼らの反乱はいくつものミスによって失敗してしまいます。

そして司馬氏は司馬昭(しばしょう)の代になります。

 

彼は父と兄が残した権力を駆使して、魏の政権に絶大な権力を握る事になります。

諸葛誕は司馬昭の権力の増大によって魏の政権を乗っ取るのではないかと、

危機感を抱き挙兵します。

結果は三国志を詳しく知っている方ならご存知の通り、失敗に終わってしまいますが、

なぜ彼の反乱は失敗に終わってしまうのでしょうか。

彼が反乱に立ち上がった理由などを交えながら、

反乱失敗の原因を探っていきたいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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毌丘倹の反乱鎮圧で功績を挙げる

諸葛誕

 

諸葛誕(しょかつたん)は毌丘倹の反乱が起きると、

司馬師(しばし)から「豫州(よしゅう)の兵を集めて、寿春(じゅしゅんん)城を陥落させよ」と

命令を受けます。

彼は豫州で兵を集めて、寿春城を陥落させると司馬師に褒められ、

揚州の軍事を行使することができる役職をもらいます。

その後毌丘倹の反乱が鎮圧されると、寿春城に駐屯するように命じられ、

・呉国境の守備を任されるようになります。

 

○○の時の為、寿春を善政で治める

 

諸葛誕は寿春に入城すると反乱によって人心が荒れている事を知り、善政を敷きます。

彼が善政を行ったのは寿春の民が荒れているだけが、理由ではありません。

寿春は王陵・毌丘倹の二人が相次いで反乱を起こした地であるため、

彼も司馬家に疑われているのではないのかと一抹の不安を感じます。

そのため彼はもし司馬家に疑われて反乱を起こすような事になった時の為に

寿春の民衆の心を掴んでおこうと考えて、善政を敷きます。

この計画は成功し、寿春の民衆は諸葛誕を慕い始める事になります。

 

寿春の守りを固める

 

諸葛誕は寿春の民衆の心を掴むことに成功すると、次に彼が行った事は、

寿春城の防御を万全にしようと考えます。

寿春の城壁はあまり高くなく、防御に適さない城でした。

そこで彼は城壁をしっかりと高くして、敵兵が攻撃を仕掛けてきても、

簡単に城へ登れないようにします。

こうして寿春城が簡単に陥落できないように防御を固めながら、

城に兵糧が無くなれば戦う事が出来なる為、しっかりと兵糧を蓄えていきます。

 

司馬家の使者がやってくる

 

司馬昭は諸葛誕が寿春の城の防御力を高め兵糧を蓄えている事を怪しみ、

彼の側近である賈充(かじゅう)を諸葛誕の元へ派遣。

賈充は諸葛誕に会うと「晋公(しんこう=司馬昭の事)の功績は高く、

魏に取って代わるべしと諸将や文官、民衆達までもがしきりに言っておりますが、

あなたはどう思いますか。」と尋ねます。

諸葛誕は賈充の意見を聞くと顔色を変えて「君は魏の忠臣である賈逵(かき)殿の

息子ではないか。なぜ魏の政権を盛り立てようとせず、

晋公に阿るような発言をするのだ。

私は魏の政権に異変が起きれば、身命を賭して魏の国を守るつもりだ」と

激怒の色を隠さずに賈充へ食らいつきます。

賈充は諸葛誕の決意を聞くとそのまま洛陽(らくよう)に帰って

司馬昭へ報告を行います。

 

司馬家に反乱を起こす

 

諸葛誕は賈充が帰った後も寿春の守備を固め、兵糧集めに力を傾けておりました。

彼は魏に異変が起きた時の為に、2年もの間しっかりと準備を行っておりましたが、

司馬昭から「君が魏に長年仕えてきた功績は非常に大きく、私も評価している。

そこで君に洛陽へ戻ってきて、司空の位に就いてもらい共に、

魏の政権を盛り立ててほしいと考えている。」と要請。

諸葛誕は司馬昭からの使者がやってくると、

自分が握っている兵を取り上げようと考えているのではないのかと勘繰り、

反乱を決意します。

 

呉へ人質を送り、援軍を要請

 

諸葛誕(しょかつたん)は側近である呉鋼(ごこう)に次男・諸葛靚(しょかつせい)をつけて、

呉の援軍を送ってもらえるように頼んで来いと指示を与えます。

呉鋼は諸葛靚を連れて呉に到着すると、呉の皇帝である孫休(そんきゅう)に

「主・諸葛誕は司馬家が魏の政権を私有化し我が物顔でふるまっている事に激怒し、

反乱を決意しました。しかし単独で反乱を起こしても失敗する可能性が高いため、

主の次男諸葛靚を人質として預ける為、どうか援軍をだしてもらえないでしょうか」と

懇願します。

呉の丞相である孫綝(そんちん)は孫休に「諸葛誕へ援軍を出し、

魏に痛撃を与えるチャンスだと思います。援軍を送るべきだと存じます。」と進言。

孫休は孫綝の進言を受け入れて、諸葛誕へ援軍を送る事を約束すると、

孫綝は諸将を率いて寿春へ向けて出陣します。

 

司馬家に反旗を翻す

 

諸葛誕はこうして様々な手を打つと兵を集める為、募兵を開始。

すると民衆は諸葛誕の善政を知っているため、数十万の兵士が彼の元に集まります。

彼は数十万の兵を集めると、

寿春にいた楽進(がくしん)の息子である楽綝(がくちん)を殺害して挙兵。

こうして彼は万全の態勢を整えた後、司馬家に反旗を翻します。

 

反乱鎮圧の軍勢が出陣

 

司馬昭は諸葛誕が反乱を起こした事を聞くと、20万以上の大軍を率いてすぐに出陣。

寿春近辺に到着すると戦上手で知られる王基(おうき)に軍勢を与えて、

寿春城を包囲するよう指示を出します。

王基は司馬昭から軍勢を与えられると速やかに寿春へ到着。

この時、諸葛誕の援軍に来ていた呉軍と鉢合わせ戦闘を行い、

呉軍を打ち払って寿春を包囲します。

司馬昭は王基が寿春へ向かった後、皇帝・曹髦に

「陛下。諸葛誕は魏の政権に反乱を起こした不忠者です。

彼を討伐するためにぜひ陛下のお力をお借りしたいと考えております。

ぜひ寿春に近辺に来ていただけないでしょうか。」と皇帝の出陣を促します。

曹髦は司馬昭の提案を受け入れて、親衛隊を率いて寿春へ向かいます。

司馬昭は皇帝に出陣してもらう事で、

自分の軍勢は諸葛誕の反乱を討伐する正義の軍との位置づけをしっかりと行い、

魏の諸将を味方に付けます。

 

呉軍に包囲陣を攻撃してくれるよう要請

 

諸葛誕は日に日に魏軍の包囲が厳しくなり、

寿春城内から城外の魏軍に攻撃できない状態になってきます。

そのため彼は城外に布陣している呉軍へ使者を送り

「魏の包囲陣を打ち破ってくれないか。」と要請。

呉軍の総大将として来ている孫綝は諸葛誕の要請を受けると、

諸将に命じて魏軍に攻撃するように命じます。

 

呉軍VS魏軍

 

孫綝に寿春を包囲している魏軍を打ち払えと命じられた呉の猛将・朱異(しゅい)は

諸将を率いて出陣します。

彼は寿春に到着すると、すぐに魏軍に猛攻を加えますが、

寿春を包囲している魏軍の猛反撃にあって朱異の軍勢は敗北。

その後も彼は攻撃を仕掛けますが、

その度に魏軍の反撃にあってしまい敗北してしまいます。

彼は二度目の敗北の時に、引き連れてきた輸送物資を奪われてしまいます。

こうして散々な結果に終わった朱異は本陣へ引き返すと、

孫綝の逆鱗に触れ殺害されてしまいます。

そして孫綝は寿春を救援することを諦めて、撤退していく事になります。

 

包囲陣を打ち破るため、出撃を決意

 

諸葛誕は呉軍が退却した事を知ると、ショックを受けますが、

戦に敗れたわけではない為、魏の包囲陣を打ち破る方策を考えます。

諸葛誕が包囲の陣を切り崩す方策を考えている時にちょうど文欽がやってきます。

彼は諸葛誕に「魏軍は寿春城から攻撃を仕掛けてこない事に油断しているはずです。

この油断の隙をついて攻撃を仕掛ければ、

魏軍の包囲陣を打ち破る事ができると思います。」と進言。

この進言に呉の援軍でやってきた諸将も賛同した事で、

諸葛誕は城外の包囲陣に攻撃を仕掛ける決意を固めます。

こうして諸葛誕の軍勢と呉の軍勢は魏軍へ猛攻を仕掛けます。

しかし魏の包囲陣は諸葛誕の軍勢と呉の軍勢の猛攻にビクともしないばかりか、

出撃してきた軍勢に痛撃を与えます。

諸葛誕は魏軍の猛反撃を見てもあきらめず、数日間攻撃を行い続けますが、

損害ばかりが大きくなっていくため、攻撃を中止して城内へ戻る事になります。

 

城内の兵士の士気が大きく低下

空腹の兵士

 

諸葛誕(しょかつたん)は魏軍に敗北すると再び城内へ戻って籠城を続けます。

しかし城内の諸葛誕の部下達は、城外に出撃して敗北した事と

呉軍が魏軍にコテンパンに敗北し退却した事を知ると大いに士気は低下。

さらに彼の部下である蒋班(しょうはん)や焦彝(しょうい)らは諸葛誕と文欽(ぶんき)に、

今後の対応策を提案すると二人は激怒し、彼らを打ちのめします。

二人は策を提案しただけで、これほど痛めつけられたことで大いに激怒。

二人は協議を重ねていった結果、魏へ降伏することを決めます。

 

援軍に来た呉軍も…

 

諸葛誕の援軍として来て寿春(じゅしゅん)に籠城していた呉軍の士気も大いに低下。

鍾会(しょうかい)は呉軍の士気が低下している事を知ると、

援軍として来ている呉の将軍全端(ぜんたん)達へ降伏するように呼びかけます。

全氏は始め鍾会の使者の話を断りますが、

呉の国内で起きた全氏一族の内乱の話を聞くと鍾会へ降伏の使者を送り、

寿春城を出て魏へ降伏します。

 

諸葛誕と文欽の喧嘩が敗北のきっかけに…

 

諸葛誕は城内から魏へ降伏している武将や兵士が出始めている事に焦りを感じ始めます。

しかしこの勢いを止める方策が思い浮かばず、どうしていいか途方に暮れている中、

文欽(ぶんきん)がある提案をもって諸葛誕の所へやってきます。

文欽は「城内の兵糧が心もとなくなっている。このままでは城内が飢えてしまうので、

あなたが率いている兵士達を解散させ、

食べる人間を減らすのはどうであろう。」と提案。

諸葛誕は文欽に「兵士を解散することはできない」と反対意見を言います。

すると文欽は「ではどうするのだ。このままでは飢え死にだぞ」と激怒。

諸葛誕は文欽と仲が良かったわけではなかった為、

彼の言葉を聞いて「じゃあ。君が率いてきた軍を解散させればいいのではないか」と

提案します。

もちろん文欽は諸葛誕の提案を受け入れることはしませんでした。

こうして二人は激しく口論を数時間にわたって行いますが、

決着をつけることができませんでしたが、諸葛誕は我慢の限界にきておりました。

そして口論が終わると剣を取って文欽をぶった斬ります。

 

父を殺害された息子達は魏へ降伏する

 

文欽が諸葛誕に殺害されたと知った文鴦(ぶんおう)は、

諸葛誕を殺害するため自分の営舎に戻って兵士に

「父が諸葛誕に討たれた。父の敵を討つために出陣するぞ!!」と

全軍に命じます。

しかし文鴦の命令に対して、兵士達は誰も彼に付き従う事をしませんでした。

彼は兵士達が自らの命令を無視した事に、

自分の命が危険にさらされる可能性があると考え、

弟である文虎(ぶんこ)と共に寿春の城壁を飛び越えて逃亡し、

司馬昭(しばしょう)へ降伏を願い出ます。

司馬昭は二人の降伏を受け入れると二人に「大きな声で城内にいる兵士へ、

降伏をよびかけよ」と指示を出します。

二人は司馬昭から命じられると城内にいる兵士達へ降伏を呼びかけると

多くの兵士達が魏へ降伏。

こうして寿春の城内の兵士達が少しずつ魏へ降伏していくようになっていきます。

 

諸葛誕ついに最後を迎える

 

司馬昭は寿春城内の士気の低下と兵士が激減しているであろうと考え、

総攻撃を仕掛けます。

諸葛誕は魏軍の総攻撃を受け必死に抵抗しますが、兵士の士気が低下している事と

籠城している兵士が激減している事から

このまま籠城していても魏へ勝つ事が出来ないと思い、

自らの精鋭部隊を率いて城外へ出撃します。

しかし司馬昭の配下である胡奮(こふん)は諸葛誕が脱出する場所に

兵を待ち伏せさせており、諸葛誕を捕らえて処罰します。

こうして諸葛誕の反乱も王陵(おうりょう)と毌丘倹(かんきゅうけん)に

続いて失敗してしまいます。

 

王陵・毌丘倹と比較するとかなり勝算があったように思えるが…

 

諸葛誕(しょかつたん)は司馬昭(しばしょう)に反乱を起こして鎮圧されてしまいますが、

なぜ彼の反乱は失敗したのでしょうか。

王陵(おうりょう)や毌丘倹(かんきゅうけん)達と比べると

よほどうまくいっていたような気がします。

確かに二人の反乱と比較した場合、呉へ援軍を要請したり、

用意周到に兵糧を準備したりと、この反乱に勝算はあったように感じますが、

それでも彼の反乱にはいくつかのミスがありました。

 

諸葛誕の反乱が失敗した理由その1:城内に呉軍を入れてしまった事

 

諸葛誕の反乱が失敗してしまった理由として私が

考えたのは寿春城(じゅしゅんじょう)に、

呉軍を入れてしまった事ですが、これは諸葛誕の失敗というより文欽の失敗です。

彼は早く寿春城を救出するため、自ら寿春城へ入城します。

寿春城には大量の兵糧が蓄えておりましたが、この兵糧は寿春城に籠城する兵士10万人分

が数か月耐える事ができる兵糧でした。

そこに文欽率いる呉軍が数万で入城してきたことで、

集めていた兵糧が足りなくなってきたことが反乱失敗の一つ目の理由です。

しかしこの理由は諸葛誕や文欽などもいつまでも籠城するはずはないであろうとの考えがあったと思うので、

そんなに大きな原因ではないように思われますが、

結果籠城できなくなったので敗因の一つに挙げられるとおもいます。

 

諸葛誕の反乱が失敗した理由その2:蜀・呉の軍勢があまり強くなかった

 

諸葛誕の反乱が失敗した理由その2としては、蜀・呉の軍勢があんまり強くなかった事ではないかと

思われます。

孔明の時代は呉との連動した作戦がかなりの功を奏しておりましたが、

この反乱においてはそうではありませんでした。

蜀軍は諸葛誕が反乱を起こすと北伐を開始しますが、鄧艾(とうがい)の軍勢に敗北すると

すぐに軍を退却させてしまいます。

また呉軍も諸葛誕の援軍に向かいますが、孫峻(そんしゅん)率いる呉軍が強さを発揮することなく、

敗北して、諸葛誕救援を諦めてしまいます。

総指揮官の力量不足が大いに低下していたことが原因であったと言えるのではないのでしょうか。

 

諸葛誕の反乱が失敗した理由その3:反乱を起こす時期が遅すぎた

 

諸葛誕の反乱が失敗した理由その3としては、反乱を起こす時期が遅すぎたのではないかと思います。

毌丘倹は諸葛誕が味方に付けば司馬家を打倒することも可能であると考えていた事を表す証左として、

彼が反乱を起こした際に、諸葛誕に味方になってくれないかと使者を送っております。

しかし諸葛誕は、文欽と仲が悪かったことから毌丘倹に協力しませんでした。

その結果用意周到に反乱計画を立てて反乱を単独で起こしますが、失敗に終わっています。

もしも諸葛誕が毌丘倹(かんきゅうけん)の反乱に協力しているか、

共に反乱を起こしていれば歴史は変わっていたはずです。

 

三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

諸葛誕の反乱失敗の理由を上記に挙げさせていただきましたが、

これらの理由によって反乱は失敗に終わってしまいます。

彼の反乱は失敗に終わってしまいましたが、彼の死後一つの美談がありました。

諸葛誕が亡くなると魏軍の武将である胡奮(こふん)は、諸葛誕の精鋭たちに降伏を促しますが、

彼らは一人として魏軍へ降伏せず突撃をしていって亡くなります。

私はこの最後を知った時に、一人の武将を思い出しました。

その武将は西楚覇王と言われた項羽です。

彼も劉邦(りゅうほう)に追いつめられ部下と共に逃走を図ります。

しかし劉邦軍の騎兵に追いつかれると彼の部下は誰一人として劉邦軍に降伏せず、

無謀の突撃を繰り返して亡くなります。

この項羽の部下と諸葛誕の部下非常に似ているように思いましたが、

皆さんはどう思いますか。

「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。

次回もまたはじさんでお会いしましょう

それじゃまたにゃ~」

 

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