いまさら聞けない真田丸って一体何なの?

2016年10月10日


 

真田丸

 

NHKで今年初めから放映され、ついに終盤へ突入した「真田丸」

さてこの題名の「真田丸」ですが一体どのような意味なのでしょうか。

そもそも真田家と真田丸はどのような関係性があるのでしょうか。

今回は真田丸についてご紹介したいと思います。

 

真田丸に関する記事一覧:真田丸全記事

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



大河ドラマ真田丸の題名ってなんか意味あるの??

真田丸

 

大河ドラマ「真田丸」。

今回は真田丸のストーリー紹介ではなく、真田丸の題名の意味をご紹介するお話です。

大河ドラマをご覧になっている方はこの題名に意味があるのかどうか、

考えた方もいるのではないのでしょうか。

答えはあります。

真田丸は実際に史実に登場したもので、

この真田丸を説明するには信繁と大阪の陣を語らなければ始まりません。

 



豊臣家と徳川家因縁の対決

 

この真田丸ですが一体何なのでしょう。

史実に登場するのは大阪冬の陣の時です。

大阪冬の陣は徳川家康が豊臣家に因縁を付けて始まった

豊臣家の本拠地である大阪城を巡る攻防戦です。

この戦いは徳川家と豊臣家の戦いですが、

この戦いに参加して戦ったのは豊臣軍の正規軍だけではありません。

徳川家に恨みを持った人や関ヶ原の戦いで敗北して、

浪人となった大名達も参加しております。

大河ドラマ真田丸で関ヶ原の戦いに敗北して紀州九度山へ流罪となった

真田信繁もこの戦いに参加しております。

 

雌伏の時が終わりを告げる

 

真田信繁は紀州九度山で豊臣家から使者がやってきます。

この使者は信繁と会うと「豊臣家は徳川家から難癖を付けられて、

断交状態になり一触即発の状態になりました。

いつ戦が起きてもおかしくない状態で豊臣家は徳川家に対抗するため、

浪人を集めております。

秀頼公は徳川を二度打ち破った軍歴を持つ真田家にも大阪城へ来て欲しいとのことで、

今回お願いに参りました。」と信繁に大阪城へ来て欲しいことが伝えられます。

信繁は豊臣家からの要請を快く引き受け、大阪城へ入城する旨を伝えます。

豊臣家から派遣されてきた使者は大いに喜んで、信繁に大金をおいて帰っていきます。

信繁はこの大金を使って赤一色の鎧を購入。

そして信濃にいる父・真田昌幸(さなだまさゆき)以来の家臣へ

「大阪城で徳川相手に一戦やろうではないか」と参戦を求める手紙を書きます。

こうして九度山に流されてから10年以上の時を耐え忍んでいた雌伏の時が終わり

真田信繁は、再び歴史の表舞台に姿を現すことになります。

 

関連記事:神回『犬伏の別れ』の裏側、真田丸と韓信には深い関係性があった

 

紀州九度山からの脱出と大阪城へ入城

真田丸

 

信繁は大阪城へ入城する準備を万端に整えます

大阪城へ入城するためには紀州九度山から脱出しなければなりません。

その為彼は近隣の村人を呼んで宴会を開きます。

ここで村人を全て酔わせて、翌朝信繁一行は真紅の鎧を着て大阪城へ向かいます。

信繁は紀州九度山を後にしてから数日後大阪城へ入城。

そして彼は共に徳川家と戦う事になる諸将へ挨拶回りを行います。

この大阪城へ入城した指揮官は天下に知られた武将で、

代表的な武将を上げると、後藤基次(ごとうもとつぐ)や長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)、

毛利勝永(もうりかつなが)、木村重成などの武将へ挨拶を行います。

こうして信繁は挨拶を済ませると徳川家とどのようにして戦うかの軍議が始まります。

 

徳川家20万VS 豊臣家9万

 

 

大阪城に入城した信繁は、軍議に入ると徳川家がどの程度で攻めてくるのか詳細な情報を

知ることになります。

徳川家は徳川家康を総大将として20万の大軍で京都を通過して攻めてくるとの事です。

そして豊臣家に集まった兵数は9万。

2倍以上の兵数の差がついたこの戦いにどうすれば勝つことができるのか。

この情報をもとに軍議が始まります。

 

信繁パパ真田昌幸の秘策

 

大阪城の主将として取りまとめることになったのは大野治長(おおのはるなが)です。

彼は軍議が始まると大阪城へ籠城して徳川軍と戦うべしと声を荒げて提案。

しかし元指揮官で戦場を駆け巡っていた武将達はこの案に賛同しませんでした。

もちろん信繁も賛成しません。

治長が話し終わると信繁がゆっくりと口を開き

「亡き父・真田昌幸(さなだまさゆき)から徳川軍迎撃の秘策を授かっております。」と語ります。

この言葉を聞いた諸将は「どのような策ですか」と話の続きを促します。

信繁は「父は大阪城に籠城しないで、出撃して京都を支配下に入れろとのことです。

そして京都を手中に収めたならば全軍で近江の瀬田で徳川軍を迎撃するべしとのことでした。

こうして徳川軍と数か月戦えば敵軍は20万もの大軍。兵糧を補給することが困難になり、

ここで総大将である秀頼公に戦陣に出陣してもらえば、豊臣家の軍勢の士気も上がり

徳川軍を粉みじんに撃破することができるのではないのでしょうか。

また瀬田で戦っている間に西国の諸大名へ手紙を送って豊臣に加勢するべしと呼びかければ、

それなりの大名が集まってきましょう。

そうすれば一度退却した徳川家が再び豊臣家へ容易に攻撃することができなるであろうとの

作戦です。いかがでしょうか」と父昌幸が残した秘策を披露します。

この作戦に浪人衆の指揮官たちは大いに賛同し、「ぜひ迎撃策を採用するべし」と

大野治長に向かって迎撃策を採用するべしと促します。

しかし治長は「秀頼公を戦陣に出すことはできん。

やはり籠城策で徳川軍とは戦うことにする。もはやこれは決定事項である」と

言って軍議を強制的に終わらせます。

こうして豊臣家は昌幸の秘策を蹴っ飛ばして、大阪城に籠城して戦うことになります。

 

大阪城の弱点

 

豊臣秀吉(とよとみひでよし)が多くの財産を傾けて築いた鉄壁の城・大阪城。

内堀と外堀に水を敷いた上に運河と河川を敷いて敵が近寄れないようにします。

この城を築いたのは豊臣秀吉の軍師であった黒田官兵衛。

しかしこの鉄壁に近い城にも弱点がありました。

大阪城の弱点を見抜いた信繁はすぐに大野治長の元へ行き

「大阪城の南側の防御が弱いように思われます。

そこで私が出丸を作ってここの防御を固めたいと考えているのですが、

よろしいでしょうか。」と許可を求めます。

大野治長は信繁の出撃案を拒否してしまった手前、信繁の案に賛同することにします。

信繁は治長から許可をもらうとすぐに大阪城の南口へと向かい出丸建築を命じます。

 

信繁の本当の狙い

真田丸

 

信繁はなぜ自ら外に出て戦うことにしたのでしょうか、

それには理由がしっかりとありました。

大阪城の本当の弱点は信繁がしてきた場所より少しばかり西へ行ったところでした。

ここは平野口と呼ばれる場所で、この地点以外は堀の中に水を通しておりましたが、

この地点だけ堀の中に水を通すことがされておりませんでした。

またこの平野口は水を通していない堀に防御を施さずただの空堀であり、

平野口の前面には野原が広がっておりました。

そのためこの場所が大阪城で最大の弱点となっており、

この近くに信繁が考えた防御拠点を築くことで、

敵をここに引き付けて迎撃すれば敵軍が真の弱点に築くことがないであろうと考えて、

大野治長に進言したのです。

こうして信繁は本当の狙いを潜ませつつ、着々と工事を開始していきます。

 

ついに完成その名を「真田丸」

 

真田丸

 

こうして真田信繁(さなだのぶしげ)は着々と土木工事を行い、

ついに大阪城の弱点であった平野口を守る工事が完了します。

信繁が作ったのは南北180mほどある小さな城で、この建造物の名を「真田丸」と名づけます。

しかし信繁はここに兵をある程度こもらせてから、

自らは真田丸の先にある小高い丘である篠山と言われる地に陣を移します。

 

信繁、徳川軍へ挑発を仕掛ける

徳川軍がついに大軍で大阪城へ押し寄せます。

徳川幕府軍の軍勢は大阪城の城門に対して全て攻撃できるように配置。

真田丸の全面も徳川軍の大軍が布陣しておりました。

信繁は早速真田丸まで敵をおびき寄せるため、

篠山の前に布陣している前田家の軍勢に鉄砲を射かけて挑発します。

すると前田勢は信繁の挑発に乗っかり、篠山へ向けて攻撃を仕掛けてきます。

この様子を見た信繁は篠山にいた全軍へ真田丸へ退却するように指示を出します。

 

真田丸へ攻撃を仕掛けてくる

前田軍は篠山に到着しますが、既に真田軍は撤退したあとであり戦は起きませんでした。

しかし麓で前田軍に対して再び鉄砲による威嚇射撃が行われると、

前田軍は再び前進を開始して、真田丸へ向かって突撃していきます。

信繁は前田軍が真田丸目掛けて突撃してくる姿を櫓から見て、

彼は下にいる将校達へ「俺が合図を出すまで、敵へ一切攻撃を仕掛けるな。」と命令を下します。

そして信繁は櫓から降りて敵の顔が見える位置まで敵を惹きつけると大声で

「撃てぇぇー!!」と叫びます。

すると真田丸にこもっている兵士達は一斉に前田軍へ向けて鉄砲を斉射。

この攻撃によって前田軍に甚大な被害が発生したため、彼らは撤退を開始します。

また前田軍と時をずらしてやってきた井伊直孝(いいなおたか)の部隊や

寺沢広高(てらさわひろたか)の部隊にも大損害を与えます。

また信繁は隣で激しい攻防戦を繰り広げていた長曾我部盛親の軍勢を助けるため、

真田丸から出撃して、敵の側面に突撃を行います。

この突撃によって長宗我部盛親隊と戦っていた徳川幕府軍は退却していくことになります。

こうして獅子奮迅の戦いを見せ、自軍の兵の士気を高めることに成功した信繁。

大阪城内はもちろん敵である徳川幕府方からも大いに評価を上げます。

そんな中一人の男が真田丸へやってきます。

 

叔父からの寝返り要請

徳川幕府方に味方していた信繁の叔父である真田信尹(さなだのぶただ)。

彼は徳川家康の部下である本多正純(ほんだまさずみ)の命を受けて、

真田信繁を降伏させてこいと言われて真田丸へやってきます。

信繁は叔父がやってくると城門をあけて叔父を向かい入れます。

信繁は久しぶりにあった叔父と色々な事を語り合ったあと叔父から

「信繁。徳川へ降伏しろ」と説得を受けます。

信繁は叔父の降伏要請を丁寧に断り、彼を真田丸から徳川の陣へ丁重に送り返します。

 

豊臣・徳川の和睦と真田丸の破壊

大阪城の首脳陣は徳川幕府軍と互角以上の戦いを繰り広げ、大いに満足しておりました。

そんな中徳川幕府から大砲の攻撃を受けてしまいます。

大砲の弾は大阪城の天守閣に直撃し、

大阪城へこもっている淀殿達へ精神的にダメージを追わせます。

その後大阪城の首脳陣は前線で戦っている指揮官に相談することなく、

徳川幕府へ和睦を持ちかけます。

その後幾度かの交渉があった後、豊臣家は勝手に徳川家と和議を結んでしまいます。

徳川幕府が出した条件は、大阪城の外堀を埋めることでした。

その為大阪城の外堀の外にあった真田丸も破壊されてしまいます。

徳川軍を悩ませて真田丸はこうして短い生涯を終えることになるのです。「

 

戦国ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

史実では真田丸の戦いにおいて初めて真田信繁の名が天下に轟くことになります。

もし豊臣方が和睦を結ばなければ、大坂夏の陣のような事が起きなかったかもしれません。

しかし夏の陣における真田信繁をはじめとする大阪諸将の大活躍も見れなかったでしょう。

どちらがいいとは言えませんが、

一つ言えることは真田信繁は父昌幸の軍略をしっかりと血肉として、

受け継いでいたことは間違えないでしょう。

「今回の戦国時代のお話はこれでおしまいにゃ。

次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。

それじゃ~またにゃ~」

 

真田丸に関する記事一覧:真田丸全記事

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

-戦国時代 (日本)
-,