【驚愕の事実】三国志ではなく五国志だった!士燮(ししょう)勢力の台頭

2016年10月26日


 

三国志地図

 

中華に()()(しょく)の三つの国ができたことがきっかけで三国志(さんごくし)と呼ばれることになりますが、

実は魏・呉・蜀の三つの国以外にもう二つ国があったことをご存知でしたか。

その国は北の春秋戦国時代で言うところの燕と呼ばれる国に割拠していた公孫氏(こうそんし)

孫呉の南に位置して越南地方や現在の広州と呼ばれる地域を支配していた士氏(しし)

彼らを合わせて五国志と呼べるのではないのでしょうか。

今回は越南地方を支配していた士氏一族の棟梁であった

士燮ししょうをご紹介していきたいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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洛陽で学ぶ

 

士燮は日南太守であった父からの援助を得て、洛陽(らくよう)で勉学に励みます。

彼は色々な勉学を学んでいくのですが、

この時に「左氏春秋(さししゅんじゅう)」と呼ばれる歴史書を読んで学びます。

その後彼は洛陽での学問が終わると、

荊州の南郡にある巫県(ふけん)の県令の役職に就任。

この巫県時代に実績を積んだ事がきっかけとなり、交州の太守へ昇進することになります。

 

 

 

乱れた交州を立て直そうと考えるが・・・

氐族

 

士燮が交州の太守として赴いた時交州の刺史が、

異民族の攻撃に遭って殺害されてしまいます。

そのため士燮は交州に入る前に道々で兵を募兵した後、

交州に入り異民族を片っ端から討伐。

彼は寝る間も惜しんで異民族討伐に明け暮れたおかげで、

交州から異民族の姿がなくなります。

しかし異民族討伐の戦を各地で繰り広げてしまった結果、

民衆が耕していた土地がボロボロになってしまいます。

そのため彼は一人で広大な交州各地の民政を見るよりは、

弟や息子達に交州の各県に配置することで、

民政を素早く立ち直ることができるのではないかと考え、

朝廷に弟と息子達へ交州各地の太守にしたいとの希望を申請します。

この民政を早期に復興させようとする考えの他にもう一つ彼には計画していることがありました。

 

交州を自らの一族で固めることに成功する

 

朝廷は士燮の願いを受け入れて、彼の一族を交州各地の太守へ任命します。

このおかげで異民族討伐で起きた戦で荒れた土地が回復していくことになります。

また士燮が考えていた計画も成功することになります。

その計画は一族で交州を支配することです。

この計画を朝廷が知る由もなく、彼の要請を叶える形になるのです。

見た目は漢の朝廷にしたがっているふりをしているようにしていますが、

実際の交州は士燮を党首として独立勢力に近い形で統治しておりました。

 

戦乱を避けてきた中原の人々を受け入れる

 

士燮はこうして中原の混乱から遠い交州で独立性を持った太守として、政治を行っていきます。

彼は交州いる民衆に対して優しい統治を行ったことで民衆からも支持も有り、

しっかりと交州の土地を収めていくことになります。

また中原の人々は戦乱が相次いでいることから、交州の混乱のない土地であるとの噂を聞き、

次々と中原から民衆が避難してきます。

士燮は彼らを快く受け入れたことで、

交州の人口は増えて農業や商業などの生産力も増加していくことになります。

こうして着実に力を蓄えていくことに成功していきます。

 

朝廷に目をつけられないようにする為に・・・

 

士燮は半ば独立している状態でしたが、

朝廷から目を付けられて中原の実力者から討伐軍を差し向けられないようにするため、

色々と朝廷に対して工作を行っていきます。

彼は金や交州の南で採れた珍しい物を朝廷に贈って「自分は朝廷に忠義を尽くしている」という

アピールを行い続けます。

朝廷も士燮が毎年貢ぎ物を贈ってくる勤王の志を持った太守であると見て、

彼に交州の七つの郡の総督に任命し、忠勤に励むように指示を出します。

士燮はこうして朝廷から目を付けられることなく、

名実ともに交州の独立者としての地位を手に入れることに成功。

しかし江南に強大な勢力が出現したことによって士燮が統治していた交州にも、

戦乱が押し寄せてくることになります。

 

孫家の台頭

孫堅

 

揚州(しょうしゅう)を制圧し江南に一大勢力を築き上げることに成功した孫家。

彼らには悩みがありました。

その悩みとは広大な領土を持っておりましたがその領土には異民族が多く割拠しており、

異民族討伐に手を焼いていた点と中国北部に割拠している魏と度重なる戦で兵力は損耗し、

領土は広いが兵力を補充する人口が意外と少ないことです。

そのため孫権は南方にあり平和で人口も多く、

農業や商業などを盛んに行っていた交州に目をつけます。

 

孫権の武将がやって来る

孫権

 

士燮(ししょう)は孫家の武将である歩騭(ほしつ)がやってくるとの情報を手に入れると、

各地のトップになっている兄弟達を呼んで「孫家が交州刺史を新たに任命した。

そしてその新たな交州の刺史である歩騭というものを送り込んでくる。

彼がきた時逆らわずに配下のようにして振舞うのだぞ。

いま孫家に睨まれたらせっかく独立勢力として今まで培ってきたものが全て消えてしまうから、

気を付けよ」と指示を出します。

士燮の兄弟達は兄貴の言い分をよく理解して、彼の指示通りに動くことを決めます。

この士氏の会議が会ってから数ヵ月後、

孫家側が任命した新たな交州刺史である歩騭がやってきます。

 

歩騭を迎え入れ孫家の配下のように振舞う

孫権

 

士氏一家は歩騭がやってくると彼の傘下に加わり、交州の案内をします。

歩騭は数ヵ月この地で民政や軍事などを行いますが、

士氏が従順に彼の仕事を手伝ってくれたおかげで滞りなく進んでいきます。

歩騭は交州から呉の首都である建業へ行った際、

孫権に対して「士氏は孫家に対して敵対する意思がないと思われます」と孫権に伝えます。

この報告を聞いた孫権は大いに喜びます。

 

再び孫権の武将がやって来る

孫権と三国アヒル

 

士燮は自らが考えた孫家に対して士氏は全員恭順の姿勢で接するという方針を見せたおかげで、

孫家から一切睨まれることなくやり過ごした士燮ですが、この方針によって再び孫家の武将が

交州へやってくることになります。

次に交州へやってきた人物は、南方に割拠している異民族討伐のプロフェッショナルである、

呂岱(りょたい)です。

彼は孫権から交州の刺史に任命されるとすぐに交州へやってきます。

 

独立勢力として生き延びていくには

朱然と関羽

 

士燮は孫家が蜀の劉備(りゅうび)の武将である関羽(かんう)を倒して、

荊州(けいしゅう)全土を治めることになったとの情報を入手。

孫家が荊州全土を手に入れたことにより交州に対して高圧的な態度で接してきて、

難癖をつけて自分達の領土としかねない現状を考慮し、

前回のようなやり方では孫権を満足させることはできないと考えます。

そして彼が孫家から睨まれずにこの独立勢力として、

今後も生き延びていくためにしなければならない事を考えた結果、

自分の息子を人質として孫家に送り込むことにします。

孫権は士燮が自らの息子を人質として送り込んできたことを大いに喜んで、

士氏一族全員に中郎将の位を与え、彼は士燮に対して一つの命令をします。

 

「孫権ミッション」蜀の南方勢力に対して反乱を起こさせろ

孫権

 

孫権は士燮へ手紙を送ります。

士燮は孫権からの手紙を受け取ると苦笑いします。

手紙に書かれていた内容は「劉備が白帝城で亡くなったそうだ。

彼が亡くなったことにより益州の南部に割拠している異民族を先導して反乱を

起こさせるように仕向けよ」との内容でした。

今蜀と呉は、過去の事を水に流して再度国交を回復して同盟を結ぼうとしている最中でした。

しかしそれは表面上の事で、

孫権は水面下で益州南方に割拠している異民族達に反乱を起こさせて蜀の国力を低下させて、

自国に有利な同盟を結ぼうと考えておりました。

そのため南方で何十年も独立勢力として統治してきた士燮に、

孫権からミッションの依頼がやってくることになります。

 

孫権ミッションをクリア

劉備

 

士燮(ししょう)は蜀の南方で劉備の政権に対して不満を募らせている雍闓(ようがい)に、

「蜀の政権は劉備が亡くなった事によって二代目の皇帝である劉禅が跡を継いだが、

彼はまだ幼いため蜀の政権の力が弱まっている今が反乱を起こすチャンスだ。

また君達が反乱を起こした際には交州からも色々と支援を行うつもりだ。」と

蜀に対して反乱を起こすように促す手紙を送ります。

雍闓は士燮のこの手紙を見て頷き、蜀に対して反乱を起こします。

孫権は士燮から蜀の南部の豪族達が反乱を起こしたとの報告を受けると、

すぐに彼に手紙を送って「よくやった。我がミッションを達成したご褒美として、

君と弟に爵位をプレゼントしよう」と士燮が連れてきた使者に向かって述べ、

士燮に衛将軍の位と侯の位を贈り、弟である士壹(しいつ)にも将軍の位を贈ります。

こうして孫権ミッションをクリアした士燮はホッと一息ため息を付きます。

 

中華に五つの国が割拠

地球

 

こうして孫権のミッションをクリアした士燮ですが、

ここで彼がミッションをクリアした当時の中華の

状況がどうなっていたのかを見てみましょう。

 

新たな王朝を開くことに成功した魏

曹丕

 

まず、魏は曹操が亡くなり長男である曹丕(そうひ)が跡を継ぎ、

漢から禅譲(ぜんじょう)を受けたことにより魏の王朝を開きます。

そして曹丕も初代魏の皇帝として君臨して、戦で荒れている国内の整備を図っていくことにします。

 

ゴタゴタが続く蜀

劉備

 

次に蜀ですが、劉備が亡くなり二代目皇帝には劉禅が擁立され、

孔明が蜀の政権を担うべく色々と法を制定し、

劉備死後の蜀の政権の混乱を最小限に抑えると同時に、

呉との国交回復を図り呉・蜀同盟の再締結を行うべく奮闘しているところに、

士燮にそそのかされた雍闓などの蜀南部の諸豪族達が一斉に反乱を起こします。

こうして蜀は二代目皇帝が就任するもゴタゴタが続いておりました。

 

どうしようか迷っている呉

甘寧と凌統06 孫権と呂蒙

 

呉は魏に臣従する形で同盟を結んだ後、荊州を手に入れることに成功し、

関羽の仇討ちと称して攻め込んできた劉備軍の猛攻を跳ね返します。

しかし魏と同盟を結んだものの曹丕から色々と無茶な事を言われて、

魏とこのままの関係を続けていてもいいのかと迷い始めているところへ、

蜀から国交を回復して再度同盟を結びませんかとの誘いがやってきます。

そのため孫権は蜀と同盟を結んで魏と戦いを行うか、

それとも魏と同盟を結んだままの状態を維持していくか迷っておりました。

 

公孫氏の場合

公孫康

 

遼東半島に割拠している公孫氏は公孫康(こうそんこう)の跡を継いだ公孫恭(こうそんきょう)。

彼は強大な国力を持っている魏に臣従しており反乱などを起こす気配もなく静かに、

遼東半島の統治を行っていました。

後年魏に反旗を翻して、独立を図ろうと計画した公孫淵(こうそんえん)はまだ幼い子供でした。

 

実は士氏が統治していた交州も合わせて五国志であった!?

梁興 馬騰

 

こうして魏・呉・蜀・公孫氏・士氏を合わせると全部で

五つの国があることになるので(公孫氏は魏に臣従し、交州は呉と緊密な関係を築いて反臣従状態だが)、

三国志ではなく五国志と言ってもいいのではないかと思いますが、

読者の皆さんはどう思いますか。

 

士燮死す

 

士燮は士氏の勢力を交州一体に広げて、独立勢力として統治することに成功していましたが、

江東を治めていた大勢力である孫家に逆らっても勝ち目がないと判断し、

孫家に臣従する形をとるも半独立勢力的な面を維持しながら交州を守ってきました。

しかし彼はこうした策を巡らすも老いには勝てませんでした。

士燮はなんと90歳の高齢になるまで生き、

交州太守となってからなんと70年以上も交州全域に勢力を貼っておりました。

彼の死後一体交州はどうなってしまうのでしょうか。

 

交州が二分される

陸遜 孫権

 

孫権は士燮が亡くなると広大な領土である交州を真っ二つにします。

そして孫家の領土に近い地域を「広州(こうしゅう)」として呂岱を広州の刺史に任命し、

残りの半分を今までどおりの「交州(こうしゅう)」にして戴良(たいりょう)という武将に刺史にします。

孫権はなぜ交州を二つに分ける必要があったのでしょうか。

それは士氏が70年以上もの間この地を統治していたことから、

新たに呉へこの土地を編入する場合、士氏が統治していた地をそのままにしておけば

反発する可能性があった為、少しでも早く孫呉の統治法に住民達を慣れさせるために

交州を広・交2州に分けて統治することにしたのです。

その結果思わぬ事件が発生することになります。

 

士燮の息子が反発

 

今まで孫家に対して反発する素振りさえ見せてこなかった士氏一族ですが、

士燮(ししょう)の息子である士徽(しき)が孫家のやり方に怒りを覚え、

交趾(こうし)太守を自称して戴良の赴任を拒んで追い返してしまいます。

孫権は士徽が反発したことに怒りを覚え広州刺史であった呂岱(りょたい)に対して

「交趾で反旗を翻した士徽を討伐してくるよう」にと命令します。

呂岱は士氏一族の影響が強い交趾で兵を用いて討伐すれば、後々交趾や他の郡や県が

統治しにくくなると考えて策を講じます。

 

兵を使わずに反乱を治める

 

呂岱は士壹の子供である士匡(しきょう)と仲が良かったことから、

彼に「士徽を説得してきてくれないか。」

すると士匡は「無条件では納得しないと思います。

反乱を収めるための条件はどうすればいいですか」と訪ねます。

呂岱は「条件としては反発した罪として官位を剥奪するが、命は保証する」と即答。

この条件を聞いた士匡は士徽の元へ向かって呉に降伏するように伝えます。

士徽は初めは反発しておりましたが、

次第に士匡の説得を聞いて納得し孫呉へ降伏する決意を固めます。

士徽や彼に協力していた士氏の一族は呂岱の元へ行って、降伏する旨を伝えます。

 

士氏一族を一網打尽

 

呂岱は彼らが降伏してきた事を喜び大いにもてなしますが、

次の日の朝、全員を殺害して彼らの首を孫権の元へ送ります。

なぜ呂岱は彼らを欺いたのでしょうか。

それは士氏一族が広州や交州に残っていると孫家がこの地を統治する際に、

障害になる可能性があるからです。

士氏一族が長年統治していたため、彼らが本気で反旗を翻したならば民衆も彼らに味方して

反乱を鎮圧するのにものすごい時間と兵力を使うことになります。

上記のような事態になる前に士氏一族の主な人々を粛清することによって、

反乱を未然に防ぐことが出来ると共に孫呉がこの地を治めやすくすることができる利点があるため、

呂岱は彼らを騙して全員殺害したのではないかと推測できます。

また士燮の弟達の官位も剥奪することで、士氏一族を広州・交州から追放することに成功。

また孫家に人質として出されていた士燮の息子は、病にかかってなくなってしまいます。

こうして交州で独立勢力として威勢を誇っていた士氏一族は滅亡することになります。

 

三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

群雄割拠の時代から独立勢力として威勢を誇っていた士氏の勢力は三国志が成立した前半まで、

生き残ることに成功しておりました。

その間は中華に五国の国が鼎立してたので五国志と行っても過言ではないと思います。

しかし独立している勢力のみでカウントするのであればやはり三国志ですが、

この点は見方によって変わってくるような気がするのですが、皆さんはどう思いますか。

「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ

次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。

それじゃあまたにゃ~」

 

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袁術祭り

 

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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