司馬攸(しばゆう)とはどんな人?司馬家の秀才として認められていた司馬炎の弟

2016年10月27日


 

司馬攸

 

司馬炎(しばえん)司馬昭(しばしょう)の跡を継いで司馬家の棟梁(とうりょう
)
となった後、曹魏の皇帝から禅譲(ぜんじょう)を受けて(しん)の皇帝となります。

 

悩む司馬炎

 

しかし司馬昭(しばしょう)司馬炎(しばえん)を自らの後継者として初めから指名しておりませんでした。

 

晋の司馬師は玉座に座る

 

本当は司馬師(しばし)の家に養子に出した司馬攸(しばゆう)(しばゆう)を後継者にするつもりでした。しかし周囲から反対意見が出たことによって司馬炎を自らの後継者に指名した後、亡くなります。

 

司馬攸とは一体どのような人物であったのでしょうか。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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父司馬昭から愛された息子

 

司馬昭(しばしょう)の三男として司馬攸は生まれます。司馬懿(しばい)は彼が生まれると「聡明な顔をしている。この子がおれば司馬家も安泰じゃ」と述べます。

 

司馬昭は司馬攸を溺愛して自らの寝台に彼を招き寄せて「ここはキミの場所だからね」と策謀家として活躍した司馬昭らしくない言葉を息子に与えており、非常に可愛がっていたことをうかがわせるエピソードです。

 

その後司馬師に息子が生まれなかったことから司馬昭は、可愛い三男司馬攸を司馬師の元へ養子として出すことにします。

 



優れていた青年期

 

司馬攸は青年になると学問に励んで、文章を書く事に巧みであり、優秀な人物達と広く付き合い、民衆に施しを忘れずに行うパーフェクト青年でした。

 

その為司馬家の側近ばかりか他の諸将は「彼を見習え」と自分の子ども達に言っていたそうです。

 

司馬懿、司馬師、司馬昭

 

司馬懿・司馬師・司馬昭の三人は優秀でよく出来た青年・司馬攸(しばゆう)の将来に大いに期待し、司馬懿や司馬師・司馬昭が戦場へ赴く際には必ず、従軍させると共に官職を与えて司馬攸に重みをつけさせていきます。こうして皆が彼の将来に大いに期待することになります。

 

 

 

司馬師の家の棟梁になる

司馬師

 

司馬師が寿春で起きた反乱鎮圧後に目の病気が悪化したことが原因で、亡くなってしまいます。司馬攸は司馬師が亡くなったと聞くと大いに悲しみ、その悲しみはご飯が喉を通らなくなるほどであったそうです。

 

周りの人達は養父であるにも関わらずこれだけ悲しんでいる姿を見て、大いに心を打たれることになります。

 

司馬昭

 

司馬師の跡を継いだのは司馬攸ではなく司馬師の弟である司馬昭が跡を継ぐことになります。そして司馬師が亡くなると司馬師家の棟梁となって、実の父である司馬昭を支えていくことになります。

 

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司馬家の権力を確立させる

司馬昭と司馬師

 

司馬昭は兄司馬師の跡を継いで司馬家の権力を確立させることに勤しんでいきます。司馬家が天下の実権を握っている状況をどのように思っているか各地の将軍達へ使者を遣わして意見を聞きます。

 

諸葛誕

 

その結果寿春を本拠地としている諸葛誕(しょかつたん)が、司馬家に不満を持っている言動を行っており、彼は司馬家に反旗を翻しまします。

 

曹髦

 

この諸葛誕(しょかつたん)の反乱を司馬昭は一年ほどかけて鎮圧。その後司馬家の専横に我慢できなくなった皇帝・曹髦(そうぼう)が司馬家討伐の為挙兵します。

 

皇帝の位を降ろされる曹髦

 

しかしこの反乱はすぐに鎮圧されてしまい、皇帝・曹髦は乱戦の中で亡くなってしまいます。こうして司馬家の実権を各国たるものになっていき、司馬家の権力が絶対的になったのは、蜀討伐の成功と晋王(しんおう)の就任です。

 

鍾会

 

司馬昭は蜀が弱っていると判断し、鍾会(しょうかい)らの将軍に兵を与えて討伐を行わせます。

鍾会の副将であった鄧艾(とうがい)の活躍によって蜀の討伐に成功することになります。

 

殺害される姜維と鍾会

 

その後鍾会が蜀で反乱を起こす事件がありましたが、鍾会の部下の活躍によって反乱は鎮圧されることになります。この蜀討伐成功から数ヵ月後魏の朝廷は、司馬家三代の忠勤と長年曹魏を補佐してくれたことに感謝して、彼を晋公から晋王の位に昇進させます。

 

こうして司馬家に逆らうことのできる魏の臣下は事実上皆無となり、司馬家が天下の実権を握ることに成功します。

 

司馬昭の迷い

王基に感謝する司馬昭

 

司馬昭は魏王朝の中で確固たる勢力を作ることに成功し、天下の実権を握ります。

 

司馬炎(はじめての三国志)

 

しかしかれには迷いがありました。その迷いは自らの実子で長男である司馬炎と司馬師に養子へと出した司馬攸どちらを自らの後継者とするかです。司馬炎は長男であるため長幼の礼を重んじるのであれば彼を後継者とすれば、すべてが丸く収まります。

 

しかし自らが幼少の頃から可愛がり周囲からも認められるほど優れており、長男よりも優秀な司馬攸を後継者としたほうが司馬家の為にもいいのではないかと考えてしまいます。

 

重臣達の猛反対

 

司馬昭は病にかかってしまいます。そして自らの後継を司馬攸にしたいと重臣達に語ります。

 

反対する賈充

 

すると側近として長年活躍してきた賈充(かじゅう)は「殿。蜀が滅びたとはいえ、未だ天下は司馬家のものではありません。

 

ここで先代の司馬師殿の息子殿を後継者とすれば家が乱れることは必死です。

あなた様の長男である司馬炎様を自らの後継者とするのが一番いいと考えます。」と猛反発。

 

また賈充以外にも反対する臣下が多くいたので司馬昭は司馬攸を後継者とするのを諦め、司馬炎を自らの後継者として指名してから亡くなります。

 

斉王司馬攸の誕生

 

司馬昭が亡くなるとすぐに司馬炎が彼の跡を継ぐことになります。司馬昭の跡を継いでから数ヵ月後魏王朝から禅譲を受けて皇帝へ就任。

 

斉王になる司馬攸

 

司馬攸は司馬炎が皇帝となった時に斉王へ就任します。この時司馬攸は任地へ赴いて政治を行わず中央で国政に関与しながら、任地経営を行っていきます。任地へ行っていなくてもしっかりと領地である斉を統治します。

 

疫病が蔓延した村と民人

 

ある時飢饉が斉の国を襲うと彼は、すぐに民衆へ施しを行い民衆が飢えないようにするとともに、不満解消の措置を行います。

 

さらに兵士や諸将達への給与分配も公平に行い、領民や諸将から大いにしたわれる人物に成長します。また国政にもしっかりとした意見を提言して朝政が滞らないようにしていきます。

 

これらの実績が認められて、驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の位を下賜されることになります。

 

司馬攸擁立騒ぎ

 

晋の首都洛陽(らくよう)で疫病が流行すると司馬炎が倒れてしまいます。

 

後に司馬炎はしっかりと回復して再び朝政を取り始めるのですが、司馬炎が倒れた事を知った群臣達は聡明な司馬攸を司馬炎亡き後の皇帝として擁立しようとする動きがありました。

 

司馬炎にはこの時、(ちゅう)と呼ばれる太子がいたのになぜ群臣は、司馬攸を擁立しようと考えたのでしょうか。

 

 

太子司馬衷があまりにもポンコツであったから

幼い司馬衷

 

その原因は太子・衷があまりにもポンコツだったからです。

 

彼は相当なポンコツ太子だったそうで、蜀の二代目劉禅なんか比じゃないくらいダメ太子でした。重臣達は司馬炎に「太子はポンコツだから後継から外したほうがいいんじゃないですか。」と進言しますが、取り上げませんでした。

 

しかし群臣達の反対意見を黙らせる為に、テストとして仕事を与えます。司馬衷は本物のポンコツであるためこのテストをクリアできないと感じた衷の奥さん・賈南風(かなんふう)は衷の代わりに臣下に仕事を行わせて、クリアしようと考えます。

 

また彼女は巧妙に全てを代筆させてしまうとばれる可能性があるので、ギリギリのテストに受かるところまで代筆せよと命じます。この結果司馬炎は彼が仕事ができる太子であると考えて、衷を後継者として決めます。

 

だが群臣達は司馬衷の能力の低さを知っており、彼がいかに仕事ができようとも信用していませんでした。

 

その為群臣達は司馬炎が病に倒れたと聞いて、太子を擁立しようとは考えずに司馬攸を擁立しようとする動きを見せることになります。

 

母王元姫が亡くなる

王元姫

 

司馬昭の奥さんで司馬炎・司馬攸の母である王元姫おうげんきが病にかかって亡くなってしまいます。

司馬攸(しばゆう)は母が倒れたと聞くと急いで病気見舞いに伺います。

 

その後彼女が亡くなったと聞くと大いに嘆き、悲しんだそうです。王元姫は亡くなる寸前に司馬炎を病床に呼び

「攸はあなたの事を冷たい兄だと思い込んでおりますが、母が存命中はあなた達二人の仲の悪さは表立つ事がありませんでした。

 

しかし私が亡くなった後あなた達二人が仲良くやっていくことができるのか、母は大いに気にかかっています。

 

どうか兄弟力を合わせて晋を盛り立てていきなさい。」と遺言を残して亡くなります。

だがこの言葉が司馬炎に届くことはありませんでした。

 

義父賈充死すすると・・・

 

司馬攸の奥さんは賈充の娘を娶っておりました。

その為賈充が存命中の時は司馬炎が司馬攸に対していじめることもなく、平和な時がながれておりました。

 

しかし賈充が亡くなり彼が生前就いていた司空の位を引き継ぐことになります。だがこの司空の位についてから朝廷内の空気が一変し、司馬攸に対して風当たりが強くなります。

 

側近達の悪口

 

司馬炎の側近である荀勗(じゅんきょく)馮紞(ふうたん)は賈充が亡くなると司馬炎に進言します。

彼等は「もし陛下が亡くなった後、太子が国を継ぐことはできないでしょう。」と意味深なことをいいます。

 

司馬炎は「は。何言ってんの。なんで俺の息子が国を継ぐことが出来んのだ」と怒り気味に反論。すると二人は「朝廷の中や民衆達は太子よりも斉王殿下に晋国の皇帝になってもらいたいと望んでいるからです。

 

試しに殿下に斉へ帰国して領地経営に精力出せと言ってみればいいでしょう。そうすれば群臣はこぞって斉王殿下の帰国をやめるように言うに違いありません。」と述べます。

 

この意見を聞いた司馬炎は二人の意見を採用することにした事によって、晋は滅亡への道向かう事になるのです。

 

斉へ行けと命じられる

 

司馬炎は早速荀勗と馮紞らの意見を聞いて司馬攸を呼んで「朕は斉王に領地を増やしたいと思う。そこで王には新しい領地と以前からある領地へ戻って、民衆達の統治を行ってもらいたいと思っている」と伝えます。

 

この事を聞いた司馬攸は大いに落胆して、宮殿をあとにします。

その後家に帰って駆けつけてきた家臣達へ司馬攸は「陛下に用済みって言われてしまった」と述べます。

 

この日から司馬攸は気落ちして食べ物が通らなくなり、病にかかってしまいます。

 

群臣達が猛反対するも・・・

 

群臣達は司馬炎が司馬攸に対して斉へ帰国して領地経営に力を尽くせと命じられた事を知ると司馬炎に「陛下。斉王をなぜ領地へ帰らせようとするのでしょうか。いまだ民衆は晋に心服しておりません。

 

今ここで斉王を返して領地経営などさせてしまえば天下の政治にほころびが生じるのでは、ないのでしょうか。」と反対意見を述べます。

 

すると司馬炎は「人の家のゴタゴタに口を出すな」と激怒。

このような反対意見を出した臣下は地方に左遷させられてしまいます。

 

皇室直属の医者もグル

 

司馬炎は司馬攸が病にかかっていると知ると皇室直属の医者を派遣します。

彼等は司馬攸の家についてから病気を診断すると、病によって体は弱っておりました。だが彼等は司馬炎に「斉王は元気いっぱいです。」と報告。

 

また病が回復する見込みがないと知った司馬攸は司馬炎に「官職を返上して引退したい」と述べます。

 

すると司馬炎からの返事は「NO」と突き返されてしまいます。こうして斉へ向かう儀式は着々と準備されていくことになります。

 

意地で斉へ帰国途中で・・・

 

司馬攸は斉へ帰国する式典が開始されると重病であるにも関わらず、意地で平素振舞っているような態度をとり続けます。

司馬炎も彼の病が回復したと勘違いするほどでした。

 

その後斉へ帰る途中で気が抜けたのか一気に病状が悪化。

そして吐血して亡くなってしまいます。

 

この事を知った司馬炎は涙を見せて悲しみますが、馮紞は「斉王は自滅して亡くなったのです。

陛下は何も悪くありません。」と述べると司馬炎も「確かにお前の言うとおりだ」と言って

悲しむのをやめたそうです。

 

三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

もし司馬昭が司馬炎を後継とすることをせずに司馬攸を後継者としてれば、晋の朝廷は司馬炎死後あんなに乱れることがなかったように思われて仕方ありません。

 

その理由は賈充の娘が司馬攸に嫁いでことにより、君臣一体となって朝廷を切り盛りすることができたと思うからです。

(もしかしたら賈充が政治を専横して良くない方向へ向かった可能性も捨てきれないが・・・)

 

また司馬攸の息子は司馬炎の息子よりははるかに出来がよかったので、皇室があれほど激しく乱れることがなかったように思われます。

 

「今回の晋のお話はこれでおしまいにゃ。

次回もまたはじめての三国志お会いしましょう

それじゃあまたにゃ~」

 

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