【キングダム】王賁の最期は?どんな死を迎えたの?

2019年4月14日


 

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漫画キングダムでも主人公の信と人気を二分する王賁(おうほん)

 

王翦

 

彼は王翦(おうせん)の子であり、自前の騎兵である玉鳳隊(ぎょくほうたい)を率いるエリートでもあります。容姿の端麗さと厳しい物言いから、エリート特有の選民意識の持ち主に思われますが実際は大変な努力家であり何もしないで文句ばかり言う連中が嫌いなだけのようです。

 

李信(キングダム風)

 

 

最初は下僕出身の信を成り上がり者と見下していましたが、最近では共闘を通じて友情を育くみ、人間的にも一段成長しています。しかし、そんな王賁、歴史上はどんな最期を迎えたかよく分っていません。そこで、この記事では王賁がどんな最期を迎えたかを考察します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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王賁は父王翦を超える名将だった

王賁

 

王賁の最期について見る前に、一体王賁がどんな手柄を立てたのかについて、史記白起王翦(しきはくきおうせん)伝と秦始皇本紀魏世家(しんしこうほんきぎせいか)から抜き出してみましょう。

 

 

春秋戦国時代の白起、デビュー戦から大殺戮

 

 

紀元前226年、秦は王翦の子の王賁に命じて()を撃たせ楚軍を破った。

翌年、王賁は引き返して()を撃ち魏王は降伏、遂に魏の地を平定した。

史記白起王翦伝

 

水攻めをする兵士

 

紀元前225年、魏を攻め黄河の水を魏都の大梁に引いて包囲し魏()を降伏させ魏を滅ぼした

秦始皇本紀魏世家

 

「燕」の旗を持った兵士

 

 

紀元前222年、燕の遼東(りょうとう)を攻めて燕王()を捕らえ燕を滅ぼした。

さらに(だい)(趙の亡命政権)を攻めて代王()を捕らえ代を滅ぼした。

 

矛を持った信

 

 

紀元前221年、王賁は、李信(りしん)蒙恬(もうてん)と共に(えん)(せい)を破りその地を平定した。

史記白起王翦伝

 

こうしてみると、王賁の登場は紀元前226年で、そこから5年の間に魏、燕、代、燕、斉の五カ国を滅ぼす大功を立てています。史記で言及されている文字数は父、王翦とは比較になりませんが、陥落させた国の数では王翦を上回り王翦を超える名将とも言えます。

 

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史記における王賁の最期はどんなモノ?

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

では、史実における王賁の最期とはどのようなモノなのでしょうか?王賁の動向について書かれている史記白起王翦伝には以下のような王賁の最期についての記述があります。

 

秦の二世皇帝の時、王翦と王賁は既に死んでいて秦はまた蒙氏まで滅ぼしてしまった。

史記白起王翦伝

 

父、王翦と一緒にされた何とも寂しい記述ですが、この書きぶりを見ると、王翦と王賁は始皇帝の在世中に死んだようです。もし、誅殺(ちゅうさつ)されたなら「滅ぼした」と書く筈で死んでいたとは書かないからです。

 

宦官の趙高(キングダム)

 

 

つまり、王賁は始皇帝死後に遺言の改竄(かいざん)により権力を握った宦官(かんがん)趙高(ちょうこう)による政敵の大粛清に遭遇する前に幸運にも天寿を全うしたと見ていいのではないでしょうか?

 

 

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王賁の父王翦の最期とは?

 

王賁の父、王翦は史記白起王翦伝によると、頻陽東郷(ひんようとうぎょう)の人で若い時から兵法を好み秦王政に仕えたとあります。漫画のキングダムでは王氏は古くから秦の名門貴族という設定ですが、史実の王翦は流れ者であり、王氏の基盤は王翦が造ったわけです。

 

 

剣を持ち戦う楊端和

 

 

王翦が最初に記録に出るのは、紀元前236年で楊端和(ようたんわ)桓騎(かんき)と共に趙を攻略し(ぎょう)を攻め落としています。これは現在、漫画キングダムでやっている部分です。

 

 

亡くなる李牧

 

 

その後は、紀元前229年に再度趙を攻めて、宿敵李牧(りぼく)を誅殺に追い込み、司馬尚(しばしょう)を更迭させ、翌年には趙を滅ぼしています。

 

 

函谷関

 

 

紀元前226年には老齢の為に隠居を願い出ますが、李信と蒙恬が楚攻略で項燕に撃破されたので、秦王政に請われて再登板し函谷関(かんこくかん)で楚の大軍を堰き止めこれを疲労させてから、60万の大軍で撃破し、そのまま楚まで攻め込み楚王を捕らえて楚を滅ぼす大手柄を立てました。

 

その最後については、前述したように二世皇帝の時代になる前に既に死んだと簡単に触れられているだけです。しかし、王翦は用心深い人であり、あえて自分を俗物の小者のように見せ秦王政の警戒心を解き、遂に誅殺される事なく天寿を全うしたようです。

 

 

王賁は宿敵により死を迎えた?

 

王賁には宿敵と呼べる相手がいたのでしょうか?史記白起王翦列伝には、以下のような記述があります。

 

紀元前226年、燕王喜は遼東に逃げ、王翦は燕の国都を平定して帰還した。秦は王翦の子の王賁に命じて荊((けい)楚)を撃たせ楚軍を破った。

 

ーーーーーーーーーーー中略ーーーーーーーーーーーーー

秦の始皇帝は既に三晋(趙・韓・魏)を滅ぼし燕王を逃走させ何度も荊軍を破った。

 

こうしてみると王賁は度々、楚と戦い何度も撃破している事が分かります。

 

蒙武

 

また、王賁の父である王翦は、紀元前224年に楚王負芻(ふすう)を捕らえていて、翌年には蒙武(もうぶ)と共に新しく楚王になった昌平君(しょうへいくん)を戦死させ項燕(こうえん)を自殺に追い込みます。つまり、王賁にとって宿敵かは不明ですが、楚にとっては王賁と王翦は憎悪の標的であり宿敵と考えた事でしょう。結局、楚は滅ぼされ楚人は王賁も王翦も討てませんでしたが、この恨みは、王賁の子の王離の時代に晴らされる事になります。

 

 

王賁の子、王離は祖父のせいで死んだ?

 

王離(おうり)は王賁の子で王翦の孫にあたります。新唐書宰相世系(しんとうしょさいしょうせけい)によると紀元前219年に王離は武城侯(ぶじょうこう)に封じられたとあります。父である王賁は通武侯(つうぶこう)である事から、父の封地を継いだわけではないようで功績から別の地を食邑(しょくゆう)として与えられたのでしょう。紀元前219年の段階では、王賁は死んでいないと見てよさそうです。次に王離の名前が出てくるのは始皇帝の死後である紀元前208年です。

 

陳勝・呉広

 

陳勝(ちんしょう)呉広(ごこう)が反乱を起こした後、秦は王翦の孫である王離を呼び出し将軍とし名将章邯(しょうかん)の配下として反乱軍の立て籠もる鉅鹿(きょろく)城を包囲させました。その包囲は完璧で、反乱軍の援軍は救援も出せずに遠くから見ているだけであったと書かれています。

 

項羽

 

鉅鹿城の陥落は秒読みでしたが、楚の項羽(こうう)が章邯の補給線を寸断し秦軍を食糧不足に追い込みます。こうして秦軍の士気が低下した所で項羽が章邯の本隊を撃破し、動揺した秦軍に取り巻きの反乱軍が襲い掛かりました。ここで王離も項羽に捕えられたとされています。その後、王離の消息は不明になりますが生き残った可能性は低いでしょう。

 

ブチギレる項羽

 

何故なら王離の父や祖父は楚軍を何度も撃破し、王翦に至っては項羽の祖父である項燕を自殺に追い込んだ人物だからです。身内びいきが激しい項羽にとっては、祖父を殺したに等しい相手が王離で彼の性格上、王離を許して助命したとは考えにくいです。

 

仮に、王離が助命されたとしても、その後まもなく項羽は、二十万という膨大な秦の捕虜が面倒になり、夜中に奇襲を掛けて谷底に落としさらに谷底に大岩を投げ込んで全員を殺しています。あるいは、その谷底で虐殺された秦兵の中に王離もいたのかも知れません。

 

 

王騎の死と王賁の最期は関係ある?

 

王賁と言えば、同じく王氏である王騎は関係があるのでしょうか?漫画キングダムにおいては、王賁の王氏は秦の名門貴族であり王騎はその支流という事になっています。

 

王騎 キングダム

 

その王騎は、馬陽攻略戦で趙を攻めるも深追いし過ぎてしまい李牧の罠にはまり、龐煖(ほうけん)の手によって致命傷を負わされ絶命しました。死を悟った王騎が信を馬に乗せて将軍の景色を見せ、最期に矛を託すのはキングダムでも屈指の名シーンとして知られています。

 

しかし、史実では王翦は流れ者で兵法の腕を買われ秦王政に仕えていて昔からの秦の名門ではない事が明らかですから、王騎が支流という事も漫画の上での創作です。

 

一方で史実の王騎はというと王騎のモデルとされる、王齕(おうこつ)或いは王齮(おうき)は翦が史実に登場するより24年前、紀元前260年長平の戦いで活躍しています。時間的にも接点がなく、同じ王氏というだけの他人と考えるのが妥当ではないかと思います。なので、王騎の死と王賁の最期には特に接点はありません。

 

 

キングダムで王賁の死は描かれる?

王賁

 

キングダムで王賁の死は描かれるのでしょうか?可能性はゼロではありませんが、見込みは薄いと思います。それというのもキングダムは秦による天下統一までを描く漫画で天下統一後を描く漫画ではないからです。

 

 

王賁

 

 

秦は僅か15年で滅亡する短命な王朝であり統一後は、どうしても崩壊していく秦を描かないといけなくなります。ここまで築かれていく秦を描いて、それを自分で崩していくのは作者もそうですが、読者も読んでいて辛くなるでしょう。

 

 

蒙恬

 

 

さらに、蒙恬(もうてん)のように最期の場面が劇的なキャラと違い王賁は、普通に大往生した可能性が高いわけなので、漫画としても盛り上がりには欠ける事になりそうです。原作者、原泰久(はら やすひさ
)
は秦の天下統一後にも触れると言っているので少しはその後もありそうですが、王賁の最期までを描くかどうか・・

 

 

 

王賁の死後 子孫は続いたの?

西遊記巻物 書物

 

王賁の死後もその子孫は生き残ったのでしょうか?新唐書宰相世系によると、王賁の子の王離には王元(おうげん)王威(おうい)という二人の息子がいて、秦末の動乱を避けて山東に移住し、その末裔から、漢の王吉(おうきつ)王駿(おうしゅん)王崇(おうすう)、曹魏の王雄(おうゆう)、晋の王祥(おうしょう)王導(おうどう)王敦(おうとん)王羲之(おうぎし)のような琅邪王氏(ろうやおうし)が出たとされています。しかし、漢書の王吉伝では、王吉と王離の関係には触れていないので、新唐書の信憑性には疑問があるそうです。

 

キングダム(春秋戦国時代)ライターkawausoの独り言

 

今回は王賁の最期、死について書いてみました。

 

罠を仕掛ける王翦

 

 

史料で見る限り、王賁は父の王翦同様、始皇帝の在位中に大往生した可能性が高いです。父にあたる王翦が非常に慎重な性格なので、王賁も始皇帝に睨まれる事をせずに五カ国を滅ぼすような大功を立てながら、天寿を全うしたのでしょう。

 

もっとも災厄から逃れ得たのは、王翦と王賁だけで孫の王離の代には、先祖の名声がある為に将軍に抜擢され項羽の捕虜になる()き目を見ましたがすでに死去していた王賁は預かりしらない事であり、飽くまでも王賁に限れば幸せな生涯を閉じたと言えると思います。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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