西暦1600年の関ヶ原の戦いは覚えやすい00年の戦いであると同時に江戸幕府への道を開いた戦いです。しかし、関ケ原の戦いはそればかりではなく、徳川263年の天下の基盤を産み出した徳川家康が非常に儲かったコスパ最強の戦いでした。今回は、たった数時間の戦いが家康にもたらした莫大な富について解説しましょう。
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630万石の没収石高を数時間で手にした家康
関ケ原の戦いで勝利した家康の東軍は、数時間で630万石という広大な領地を西軍の大名から没収しました。太閤検地の頃の日本の総石高は1800万石なので、日本の総石高の1/3を数時間で家康は掴んだことになります。
これを現在の米の価格を参考に金銭価値に直すと4725億円という巨額です。半分は農民の取り分でも2400億円弱の儲けです。家康は没収した石高の300万石分以上を身内の加増に向けました、簡単に言うと私腹を肥やしたわけです。
そればかりではなく、家康は全国の主要な金山、銀山や堺のような主要な港を手に入れました。これらの諸々をカウントすれば、家康のファイトマネーは数時間で1兆円にも上るでしょう。世界史上を見ても、天下獲りと同時にこれだけ儲かった人はいないのではないでしょうか?
東軍についた豊臣恩顧には少ししかあげない
関ケ原の戦いは事実上は豊臣vs徳川ではなく、徳川&アンチ石田三成派vs石田三成派という複雑な図式でした。豊臣秀吉の子飼いとして辣腕を振るう石田三成に対し憎悪を持つ、加藤清正、福島正則、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政の秀吉恩顧の大名が東軍の家康について戦ったわけですが、家康はこれらの豊臣恩顧の大名に対して合計でも200万石程度しか与えられていません。
さらに彼らは、近畿方面の豊かな土地から中国、九州、四国に転封させられています。それらを考えると東軍についた豊臣恩顧は大坂城から遠ざけられ、石高も現状維持か減封に終わった骨折り損のくたびれもうけでした。
西軍が没収された630万石のカラクリ
西軍に参加して没収された石高630万石にも実はカラクリがありました。一番削られたのが豊臣秀頼で222万石から156万石も没収され66万石に削減、2位の毛利輝元は120万石から90万石以上削り29万8000石です。
この両者は、関ケ原の戦いで直接家康と槍を交えた事もないのにも関わらず家康に難癖をつけられて剥ぎ取られています。毛利輝元は名目上の西軍の総大将ですが、一説では家康と所領安堵を条件に参加しなかった説もありますが、それが事実なら家康は堂々と約束を反故にして毛利家から剥ぎ取った事になります。
実は関ケ原の戦いの前、石高のトップ3は、徳川家康、豊臣秀頼、毛利輝元の順位でした。そこで家康は、2位と3位の豊臣と毛利を狙い撃ちにして石高を剥ぎ取り、反対勢力の芽を摘んだのです。関ケ原の戦い以降は1位の家康は400万石で、2位の前田利長は120万石となります。
石高で見ても徳川と前田ではダブルスコア以上の差がつき、単体では家康に対抗できなくなりました。もし前田が家康に叛くなら、強力な大名を4~5人味方に引き入れないと勝利できなくなったのです。
石高をガメて盤石な体制を築いた家康
家臣を含めた徳川一族の版図は800万石で、当時の日本の領土の25%をしめていました。これは、関ケ原で分捕った領地が元ですが、鎌倉、室町、豊臣の各時代の政権に比較しても圧倒的に大きいものです。つまり、徳川幕府は歴代の幕府でも、もっともお金持ちの政権でした。この圧倒的な軍事と経済の優位があればこそ、実質封建体制の江戸期において徳川幕府は300諸侯を従えて中央集権的な政策が可能だったのです。
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