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この記事の目次
故郷で鎮魂の布令を出す曹操
曹操の布令は以下のような内容です。
私は義兵を起し、天下の動乱を排除してきた。郷里の人民は全て死んでしまい、沛国中を終日巡ってみても知人は絶えて無く、私に傷ましい心を抱かせる。義兵を挙げて後、将士のうちで後継の断絶した者は親戚から後継者を求め田畑を授け、牛を給付して学師を置いて教育させよ。後継者がある家には廟を立てその先人を祀らせよ。魂に精神があるなら、私が死んで百年の後にどうして恨もうか
布告を見る限り、曹操の故郷の礁は官渡決戦の余波で全滅したような印象です。しかし、それは全て曹操に味方して全滅したとは限りません、現に同時期に夏侯博という人物が将として劉備について破れ、曹操に生け捕られているからです。
夏侯氏反乱をケアすべく礁に立ち寄った曹操
深読みするならば礁には、曹操の風下に立つ事を良しとしない一部の夏侯氏が存在し、袁紹の力を背景にした劉備の扇動に乗っかり、いわば同士討ちのような事態が起きた。
そこで、これは捨てて置けないと考えた曹操が故郷に進駐し、敵味方を問わず夏侯氏を含めて将兵の鎮魂を行い必要なケアをして、二度と同じような事態にならないように周到に根回しをしたと、このように結論づけられるのです。
三国志ライターkawausoの独り言
劉備は曹操の食客として世話になる間に、実は曹操と夏侯氏の中には深刻な断裂があると見て取ったのだと思います。そして、礁の反曹派閥の夏侯氏を扇動する事で、その中の夏侯博という人物が劉備に寝返り行動を共にするようになった。
これを野放しにして、さらに礁から造反者が出る事を恐れた曹操は多少無理をして官渡から足を伸ばし、小沛で劉備を討って夏侯博を捕縛したと推測できます。
しかし、一族から造反者が出るというのは曹魏に取って都合が悪い事実なので、曹魏からの禅譲により権力を握った晋王朝は夏侯博の素性について詳しく書く事を陳寿に禁じた。本当はこんな裏事情があったりしませんかね。
参考文献:正史三国志
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