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まとめ:実際に起きたことは父による粛清?武田勝頼ファンには少し嬉しい仮説かも
大岡弥四郎事件で内部分裂寸前までいった徳川家ですが、そのしばらく後に信康の死亡という事件が起きた後は、いっきに勢力を盛り返し、武田家を攻め滅ぼすところまで大逆転します。この経緯について、こういう推理も成り立つのではないでしょうか?
岡崎城には、大岡弥四郎だけではなく、武田氏に降伏して家康を見限ろうとする勢力がウヨウヨいた。それを統括する立場の信康も、どこかでそれと同調しているような不審な点があった。
そこでついに家康は信康を粛清して、徳川家中に範を示した。自殺を強要したにせよ、暗殺したにせよ、信康の死は家康が「実の長男でも武田方に近づく気配を見せたらこうだ!」という粛清だったのではないか、ということです。
戦国時代ライター YASHIROの独り言
この仮説に立つと「信長の命令でやむをえず長男を殺した悲劇の父親」という家康のイメージとは、あまりに違ってきます。それゆえ家康のファンには、この疑惑はあまり深掘りしたくない話題かもしれません。
ただし、武田家のファンにとっては、「実は勝頼の時代になっても武田家の調略はかなり効いていた」ということになり、留飲の下がるところのある仮説ではないでしょうか?
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