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この記事の目次
酒による失敗談が多い孫権
孫権は酒に関する失敗も比較的多く取り上げられている人物です。
呉王になった時の宴会で、酔ったフリをしていた虞翻を殺そうとして劉基に諌められていますし、後年には「全員ぶっ倒れるまで飲ますぞー」とパワハラ全開の振る舞いを行い張昭に「紂王じゃあるまいし止めときなさい」と怒られています。
心理学では普段の生活で抑制されている人ほど酔った時に羽目を外したり、支配的になりやすいというので、普段の孫権は我慢をしていたのかもしれません。
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張昭とのケンカ
若い頃は先生と仰いだ張昭とも後年にはケンカが増えていきました。最終的には孫権が謝るのですが、ある時は意固地になって引きこもった張昭の家に火を付け、無理やり外に出そうとするなど苛烈なこともしています。
もしかすると孫権のもともとの性格は、奔放でわがまま、暴力的だった。後を継いだ直後は、反乱が起きることを懸念して年長者たちを立てていただけで、実はストレスまみれだった可能性もあります。歳を取るにつれて負の面が目立つようになったのは孫権が変わったのではなく、本性が表に出るようになっただけではないでしょうか。
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晩年の孫権
孫権は皇帝に即位してからの失策が目立ちます。例えば台湾と日本への遠征を決行して大半の兵を失う、遼東の公孫淵を臣従させようとして裏切られる、後継者争いを泥沼化させた上に多くの豪族を処断するなど国にとってマイナスな行動ばかりです。
前述のように感情のコントロールができなくなって本性が表に出た、あるいは単純に老いたという可能性もあるのですが、ここで注目したいのは皇帝の役割。
古代中国における皇帝は祭祀の仕事をしなければいけません。天子とも言うように祭祀を行うことで天との繋がりを示していたのです。さらに中国は多神教なので、祀る対象はかなり多かったのではないかと推測されます。
実際に孫権は即位後に孫堅や孫策の廟を建てて祖先の霊を祀っていますし、蜀では山々に囲まれているためか自然神を、魏は漢王朝から引き継いだ農神や蚕神などを祀っていました。
また、祭祀は王都だけではなく郊祀という郊外で行うものもありましたし、加えて孫権は度々親征も行っているので完全にキャパオーバー。その結果、正確な判断ができなくなり、呂壱のような人物を重用してしまうなど失策が増えていったのかもしれません。
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三国志ライターTKのひとりごと
仮に孫権が自身の性格を押し殺しながら譜代の家臣たちを立てて統治をしていたのであれば、皇帝の器と言われるのも納得です。孫権は夷陵の戦いと濡須口の戦いを制した後に臣下から即位を勧められていますが、それを断って約6年後に即位しています。
孫権は祭祀の仕事を避けたかったのかもしれません。しかし、臣下たちの望みを断れずに即位した結果、朝廷の仕事に忙殺され失策に繋がったと筆者は考えます。皇帝になったことを除けば大きなミスを犯していない名君だったと言えるでしょう。
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