劉さんぽ!中国大陸を歩き続けた劉備の足取り

2021年4月10日


 

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土いじりをする劉備

 

 

三国志の英雄劉備(りゅうび)、そのイメージと言えば貧しい境遇から人間的な魅力を武器に人望を集め、遂には諸葛孔明(しょかつこうめい)を配下に加えて蜀の皇帝に昇り詰めるサクセスストーリーが浮かびます。

 

 

劉備とともに呉を攻めまくる馮習

 

 

しかし、劉備には隠されたイメージとして中国大陸を歩き続けた劉さんぽの一面があるのはご存知でしょうか?

 

 

今回は正史三国志から、劉備の歩いた中国大陸を追体験してみましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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ズバリ!劉備の生涯の足取り

 

最初に劉備が生涯にどれほど移動したかを大雑把ですが地図にしました。ルートは無茶苦茶ですが、移動した土地を単純に線引きしてみると劉備が広範囲を歩き回っている事が分かりますね。劉備の移動距離は冒険家並みと言っていいでしょう。

 

 



最初の移動 洛陽に近い緱氏

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

 

劉備の最初の大規模な移動は15歳の頃、幽州涿郡涿県(ゆうしゅうたくぐんたくけん)の故郷から盧植(ろしょく)の私塾があった洛陽に近い緱氏(こうし)に住み込んだ時でした。しかし、当時は党錮(とうこ)(きん)がまだまだ厳しく劉備のような豪族が出世する道は閉ざされています。

 

 

酔いつぶれる劉備玄徳

 

 

そんなわけで、劉備は半年程度しか私塾に在籍しておらず、勉強には身を入れないでドッグレースや乗馬、音楽を楽しみ着飾って過ごすボンクラ学生になりました。ただ、ここである程度の人脈を築いた事が、その後のコネ人生に大きく影響します。

 

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黄巾討伐・公孫瓚部将時代

公孫瓚と劉備

 

 

その後、涿郡に戻った劉備は馬商人の張世平(ちょうせいへい)蘇双(そそう)の資金援助を受け、関羽(かんう)張飛(ちょうひ)を配下にして黄巾(こうきん)討伐の義兵を挙げ、校尉鄒靖(すうせい)に従い手柄を立て、冀州中山郡(きしゅうちゅうざんぐん)安喜県尉(あんきけんい)に任命されます。

 

 

劉備の黒歴史

 

 

しかし、そこで督郵(とくゆう)がやってきてリストラに遭遇し逆上して督郵を杖打ち逃走。この後、都尉毌丘毅(かんきゅうけん)に従い、徐州(じょしゅう)下邳(かひ)で力戦して手柄を立て青州北海国、下密(かみつ)県で(じょう)に任命されました。

 

 

劉備と公孫瓚

 

 

劉備は、ここもすぐに辞めて青州平原郡(せいしゅうへいげんぐん)の高唐県尉、そして高唐令になります。ところがここでは、黄巾賊に城を破られ公孫瓚(こうそんさん)を頼り逃走しました。

 

 

お互いに歌を交わす趙雲と劉備

 

 

公孫瓚は劉備の能力を評価し、別部司馬(べつぶしば)に任命され、青州刺史田楷(でんかい)と共に、冀州牧(きしゅうぼく)袁紹(えんしょう)を防ぎます。この頃に劉備は趙雲(ちょううん)と出会い、しばしば戦功を立てて平原令を任され後に平原相を兼ねました。

 

 

劉備の黒歴史

 

 

僅かな期間の間に劉備は冀州、徐州、青州を往復しています。劉備の生涯でも目まぐるしく忙しい時代だった事でしょう。

 

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蜀のマイナー武将列伝

 

 

徐州牧時代

 

 

袁紹が公孫瓚を攻めると、劉備は田楷(でんかい)と東のかた斉に駐屯します。次に曹操が徐州を征伐すると、徐州牧陶謙(とうけん)が田楷に救援を求め、劉備は田楷と徐州に出向いて曹操を追い払いました。

 

 

三国志の主人公の劉備

 

 

陶謙は劉備を見込んで丹陽兵4000人を預けると共に劉備を豫洲刺史(よしゅうしし)として上表し徐州牧を任せ、劉備は下邳(かひ)に入りました。その後、劉備は転がり込んできた呂布(りょふ)を保護。

 

 

呂布

 

 

ところが袁術(えんじゅつ)と小競り合いをしている間に呂布に下邳を奪われます。

 

 

劉備と呂布

 

 

劉備は海西に進駐して呂布に和を請い、豫洲の小沛(しょうはい)に入りました。この後、劉備は恐らくキャッシュディスペンサーの麋竺(びじく)の援助で、再び万人の兵力を集め、落ちぶれてスマン状態で徐州と揚州の間を盗賊して回っていた楊奉(ようほう)韓暹(かんせん)を撃破して捕らえ斬首します。

 

 

方天画戟を持つ呂布

 

 

ところが、呂布は劉備の強さに脅威を抱き小沛の劉備を攻撃して撃破しました。

 

 

曹操と呂布と劉備

 

 

劉備は、司隷(しれい)の曹操を頼って許県に落ち延びます。この頃の劉備も、青洲、徐州、豫洲をひっきりなしに往来しています。

 

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曹操の居候時代から反逆失敗時代

袁術に助けを求める呂布

 

 

次に劉備は、袁術が袁紹を頼るのを阻止するように曹操に命じられ、朱霊(しゅれい)路招(ろしょう)を率いて揚州の寿春に袁術攻撃に向かいますが、その前に袁術は「ハニーウォータープリーズ!」と絶叫し病死していました。

 

 

劉備と曹操

 

 

袁術を討伐する前、劉備は、董承(とうしょう)の曹操暗殺計画に一枚噛んでいて、それがバレるのを恐れていたのでこのまま許には帰らず、

 

 

テレビを見る朱霊

 

 

朱霊や路招(ろしょう)のみを帰すと曹操の軍勢を率いて、徐州の下邳に急行し、徐州刺史の車冑(しゃちゅう)を殺害。実力で徐州牧に返り咲き、関羽を下邳に駐屯させると自分は小沛に駐屯しました。

 

 

関羽が大好きすぎる曹操

 

 

これを怒った曹操が、下邳と小沛を攻めると関羽は敗北して曹操に捕らえられ、劉備は青州に敗走します。

 

 

ブチ切れる曹操

 

 

その後、劉備は平原に赴き、袁紹の客将として曹操と天下分け目の戦いをする事になります。この時代の劉備は揚州、徐州、青州と、またもや三州をまたに掛けています。きっと引っ越ししても、次の引っ越しに備え荷物の紐は解かなかったでしょう。

 

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袁紹の客将から荊州敗走時代

曹操から逃げ回る劉備

 

 

曹操と袁紹が官渡(かんと)で激突すると劉備は、後方攪乱(かくらん)の役割を受け、荊州の汝南に潜伏して黄巾の残党、劉辟(りゅうへき)を扇動し司隷の許県を狙う素振りを見せます。

 

 

曹仁

 

 

 

しかし、曹仁(そうじん)が出撃して劉備と劉辟は撃破されました。

 

 

劉備 危機一髪

 

 

ここで劉備は、一旦袁紹の本陣に戻り、荊州の劉表(りゅうひょう)と共同して曹操を討ちましょうと提言します。袁紹は許可を出し劉備に元の兵士を率いさせて、再び汝南に走らせ、今度は賊の龔都(きょうと)を扇動して数千人を集めました。

 

 

曹操にコテンパにされる袁紹

 

 

曹操は、蔡陽(さいよう)を派遣して劉備を討たせますが返り討ちに遭い戦死したので、曹操は袁紹を撃破した後に自ら劉備を攻めて撃ち破りました。

 

 

劉備

 

 

その後、劉備は荊州の劉表を頼り、荊州の新野に軍を駐屯させます。この頃、劉備は博望(はくぼう)夏侯惇(かこうとん)于禁(うきん)を打ち破りました。

 

 

魔のトリオ攻撃が劉備を追いつめる

 

 

この時代には劉備の執拗(しつよう)さが光ります。荊州汝南で武装蜂起して許を狙い、失敗すると一度は冀州に帰還して、再度汝南に潜伏して武装蜂起、それでも勝てずに荊州の新野に落ち着きました。

 

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赤壁の勝利から南郡制圧まで

魔のトリオ攻撃が劉備を追いつめる!05 蔡夫人、張允、蔡瑁、劉備

 

 

劉表の客将時代の劉備は、新野から樊城(はんじょう)に移り、軍師の諸葛孔明を配下に加え8年余りも平穏な日々が続きます。

 

 

曹操に降伏する劉琮

 

 

しかし、頼りにしていた劉表が死んで、後継者の劉琮(りゅうそうが曹操に降伏すると曹操軍がなだれ込んできました。

 

 

曹操から逃げ回る劉備

 

 

劉備は襄陽を通過し、長坂で曹操軍に追いつかれて、必殺妻子放棄で身軽になり、江夏太守の劉琦(りゅうき)を頼ります。さらに呉と同盟する為に揚州の夏口に渡りました。

 

赤壁の戦いで敗北する曹操

 

 

赤壁(せきへき)の戦いで曹操を破った劉備は、荊州南郡を曹操から奪還。徐州牧以来の拠点を掴みます。

 

 

悪役の曹操、正義の味方の劉備

 

 

この時代は劉備の生涯では珍しい平穏な時代で、移動も荊州から揚州までです。ただ、最期は安定の窮地に陥り、すんでの所で曹操の追撃をかわすなど相変わらず綱渡りが続きますが、赤壁の大勝で一息つけました。

 

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益州攻略から皇帝即位、夷陵まで

法正と張松

 

 

その後劉備は、張松(ちょうしょう)法正(ほうせい)の手引きで劉璋が治める益州に漢中の張魯(ちょうろ)討伐を口実に入り、龐統(ほうとう)の助けを得て成都を陥落させました。

 

 

 

弓の名人・黄忠

 

 

さらに、益州を守る楯の役割を果たす漢中を手中に収めようと劉備は目論見、法正や黄権(こうけん)黄忠(こうちゅう)の活躍で夏侯淵(かこうえん)を斬って漢中を制圧し、漢中、皇帝への階段を上っていきます。

 

 

父・関羽とともに亡くなる関平

 

 

ところが、途上で荊州を任せた関羽が魏と呉の挟み撃ちに遭い、討ち死にするという悲劇が発生。劉備は長江を下り、呉を討伐すべく揚州に侵入して連戦連勝するも、

 

 

陸遜の火計に嵌ってしまい戦死する馮習

 

 

陸遜(りくそん)の計略で補給路が伸びきったところを火攻めにされ一網打尽にされてしまいます。

 

 

劉備

 

 

劉備は命からがら逃げのびますが、今さら成都には戻れぬと白帝城に入り、そこで病が重くなり62年の生涯を閉じたのです。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

 

劉備は州単位で考えても、司隷、冀州、青州、徐州、豫洲、益州、荊州、揚州、と8つの州を何度も往来しており、流浪の傭兵隊長のあだ名がピッタリです。

 

 

三国志の武器 重戦車 曹操

 

 

曹操も生涯戦争の連続で、遠征も多くこなしていますが、それでも劉備の移動距離には、さすがに敵わないのではないかと思います。まさしく劉備は、三国時代のお散歩マスターと言ってもいいのではないでしょうか?

 

参考:正史三国志

 

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三国志主要人物の出身地図

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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