蜀漢の帝都・成都はヤバイ場所だった?

2021年4月11日


 

 

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皇帝・劉禅が住んでいる宮殿や成都を警備する伊賞

 

王や皇帝が住んでいる場所を帝都や王都と言います。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

例えば蜀の帝都は成都(せいと)という土地でした。帝都は支配者が住む場所なので軍事力で守られ一番安全な場所のように感じますが、蜀の帝都に限っていえば、かなりヤバイ場所だったようです。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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蜀の帝都はどのようにヤバイのか?ズバリ

kawausoさん

 

 

では、蜀の帝都である成都がいかにヤバいのか?をザックリ解説します。

 

1 西暦223年成都に隣接する漢嘉太守黄元(かんかたいしゅこうげん)がクーデター(未遂)
2 諸葛亮(しょかつりょう)死後、成都に近い越巂郡(えつすいぐん)で異民族の勢力が拡大。太守も恐れて郡内に入れず
3 西暦240年将軍向寵(しょうちょう)が漢嘉の異民族を討伐する途中に戦死
4 西暦240年蜀は異民族対策のプロ張嶷(ちょうぎょく)を送り込んで越郡平定。
5 漢嘉郡には成都に通じる旧道があったが旄牛(ぼうぎゅう)族が割拠し使用不能。張嶷が旄牛族を懐柔し旧道が使用可能になる

 

敗北し倒れている兵士達a(モブ)

 

 

このように成都近隣の漢嘉郡や越巂郡では、黄元のクーデターや異民族反乱が起きていて、将軍向寵が戦死したり、道路があっても異民族の力に怯えて使用できず遠回りするなど統治に支障を来している事が分かります。

 

では、以後はより詳しく成都のヤバさについて解説していきましょう。

 

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劉禅危機一髪!黄元クーデター

夷陵の戦いで負ける劉備

 

 

西暦223年、蜀帝劉備は夷陵(いりょう)の戦いで大敗。白帝城(はくていじょう)に逃げ込み心痛から病に伏します。

 

 

 

やがて劉備は危篤状態となり、成都を守っていた諸葛亮も白帝城に見舞いに向かいました。

 

 

劉禅と孔明

 

 

この頃、漢嘉太守だった黄元という人物は理由不明ですが諸葛亮と不仲でした。劉備が死ねば、政権は劉禅(りゅうぜん)の後見である諸葛孔明が握り俺は排除されるに違いない。

 

 

進軍する兵士a(モブ用)

 

 

そう考えた黄元は成都に皇太子劉禅がいて、警備も手薄である事を狙いクーデターを決行します。

 

 

炎上する城a(モブ)

 

 

黄元は漢嘉郡から北上して臨邛(りんきょう城を焼き払って成都を窺う様子を見せますが、成都には、益州治中従事(えきしゅうちちゅうじゅうじ)楊洪(ようこう)という傑物がいて、劉禅に陳曶(ちんこつ)鄭綽(ていしゃく)を派遣して黄元を迎撃させるように進言。

 

 

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

 

失敗を悟り長江を遡上して呉に逃れようとした黄元を、陳曶・鄭綽が南安で捕縛。成都に送り斬首します。

 

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南蛮征伐特集

 

 

名将向寵、漢嘉郡で討死

山越族(異民族)

 

 

さて、成都の隣にある漢嘉郡は、諸葛亮の死後に異民族の活動が活発化します。そこで、向寵という将軍が異民族討伐に向かいますが、その途中で戦死を遂げました。

 

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志(本)

 

 

あっさり描写なので、大した事ない将軍なのかと思いきやそうではなく、向寵は夷陵の敗戦では、自軍を無傷で退却させたとして劉備に賞賛され、劉禅の死後も諸葛亮に目を掛けられ近衛兵を司る中護軍に任命されています。

 

 

憤死する麋竺(モブ)

 

 

そんな実力派将軍が異民族を討伐しようとして戦死、それも成都からそんなに離れていない場所でした。向寵がなんという異民族に殺害されたか書いてはいませんが、時期的に漢嘉郡に勢力を伸ばしていた旄牛族と思われます。これはかなりシリアスでデンジャラスな事態ではないでしょうか?

 

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張嶷が越郡平定

張嶷

 

 

向寵の戦死は、史書には大きく扱われていませんが、蜀政権には深刻なインパクトを与えたようです。それというのも同年、蜀政権は異民族対策のプロである張嶷を異民族の勢力が伸びて来た越巂郡に派遣し、蜀に従わない蘇祁(そき)族の族長冬逢(とうほう)と弟隗渠(かいきょ)を計略を用いて殺害し郡を平定させているからです。

 

 

板楯蛮(異民族)

 

 

この越巂郡も成都には近いのですが、劉備死後に混乱した南中に負けず劣らず異民族の勢力が強く、蜀政権の派遣した太守は郡治に入る事も出来ない有様でした。蜀王朝としては張嶷を派遣する事が帝都の安定にも繋がると考えたのでしょう。

 

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張嶷漢嘉郡を平定

蜀の兵士

 

 

越巂郡のみならず、漢嘉郡でも旄牛族の族長狼路(ろうろ)が、父の姉妹の夫である蘇祁族の冬達の仇を討つと息巻いていました。これを見ると、向寵の戦死も蘇祁族と旄牛族の連合軍による攻撃でもたらされたような感じがしますが、それは兎も角、張嶷は旄牛族を上手く懐柔。

 

生かしておいた冬達の妻を狼路の叔父の狼離(ろうり)に返して機嫌を取り、また多額の贈物をするなどして帰順させ味方につけました。

その副産物として張嶷は、旄牛族の支配により百年もの間使用できなかった成都に通じる旧道を復旧させたとあり、逆に言うと、蜀は建国してより成都に直通する便利な道路を使用できずに、わざわざ遠回りをしていた事実が分かります。

 

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諸葛亮の南中平定とは?

孔明君のジャングル探検

 

 

こうしてみると、諸葛亮が孟獲(もうかく)を心服させ南中を平定したというのも一面的な事であり、そもそも南中まで行かなくても、蜀は漢族と異民族の混交(こんこう)の地であり、反乱の種は常に存在したという事実が浮かび上がってきます。

 

 

劉禅

 

 

諸葛亮の死後、西暦236年劉禅は巡幸をして領内を視察していますが、これも皇帝としての威容を異民族に示す為のPRだったのかも知れません。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

以上、蜀の帝都、成都はヤバイ場所だったというテーマで解説してみました。このような状態を生んだ原因は、元々は異民族の土地だった蜀に劉備が政権を置いたという所から始まっているのかも知れません。

 

 

君たちはどう生きるか?劉禅

 

 

色々危ない事はあった成都ですが、劉禅の幸運か臣下の奮闘努力(ふんとうどりょく)の賜物か、

 

 

降伏する劉禅

 

 

遂に魏の鄧艾(とうがい)に屈服するまで成都が陥落する事はありませんでした。

 

参考:正史三国志

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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