蜀漢の帝都・成都はヤバイ場所だった?

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成都はヤバイ場所(1P目)




張嶷漢嘉郡を平定

蜀の兵士

 

越巂郡のみならず、漢嘉郡でも旄牛族の族長狼路(ろうろ)が、父の姉妹の夫である蘇祁族の冬達の仇を討つと息巻いていました。これを見ると、向寵の戦死も蘇祁族と旄牛族の連合軍による攻撃でもたらされたような感じがしますが、それは兎も角、張嶷は旄牛族を上手く懐柔。

 

生かしておいた冬達の妻を狼路の叔父の狼離(ろうり)に返して機嫌を取り、また多額の贈物をするなどして帰順させ味方につけました。

その副産物として張嶷は、旄牛族の支配により百年もの間使用できなかった成都に通じる旧道を復旧させたとあり、逆に言うと、蜀は建国してより成都に直通する便利な道路を使用できずに、わざわざ遠回りをしていた事実が分かります。

 

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諸葛亮の南中平定とは?

孔明君のジャングル探検

 

こうしてみると、諸葛亮が孟獲(もうかく)を心服させ南中を平定したというのも一面的な事であり、そもそも南中まで行かなくても、蜀は漢族と異民族の混交(こんこう)の地であり、反乱の種は常に存在したという事実が浮かび上がってきます。

 

劉禅

 

諸葛亮の死後、西暦236年劉禅は巡幸をして領内を視察していますが、これも皇帝としての威容を異民族に示す為のPRだったのかも知れません。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

以上、蜀の帝都、成都はヤバイ場所だったというテーマで解説してみました。このような状態を生んだ原因は、元々は異民族の土地だった蜀に劉備が政権を置いたという所から始まっているのかも知れません。

 

君たちはどう生きるか?劉禅

 

色々危ない事はあった成都ですが、劉禅の幸運か臣下の奮闘努力(ふんとうどりょく)の賜物か、

 

降伏する劉禅

 

遂に魏の鄧艾(とうがい)に屈服するまで成都が陥落する事はありませんでした。

 

参考文献:正史三国志

 

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コメント

  • コメント (2)

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    • 月友
    • 2021年 4月 12日

    もうね、劉備が来る前から益州はグダグダだったんですよ。
    五斗米道やら黄巾残党やら異民族やらで。
    更に劉焉が自ら組織した東州兵は制御不能だし、治所である綿竹なんかは落雷で焼失するしで目も当てられないのが当時の益州。

      • kawauso編集長
      • 2021年 4月 18日

      月友さん

      南蛮なんて遠くに行かなくても、足元でも危険という蜀の状況でした。




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