毌丘倹とはどんな人?異民族討伐ジュニア司馬師の術数の前に倒れる

2021年7月9日


 

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カン丘倹(毌丘倹)

 

毌丘倹(かんきゅうけん)は西暦256年に毌丘倹・文欽(ぶんきん)の乱を起こし司馬師(しばし)に鎮圧された人物です。

 

三国志のモブ 反乱

 

父である毌丘興(かんきゅうこう)と2代で異民族討伐に手腕を発揮。曹爽(そうそう)政権に属しつつも汚職とは無縁で、逆に高句驪討伐に成功して魏の領土を拡張。合肥新城の戦いでは諸葛恪(しょかつかく)を倒すなど有能な将軍でした。しかし高平陵(こうへいりょう)の変で政権を握った司馬師に追い詰められて蜂起し残念な最期を迎えてしまうのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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異民族討伐プロ、毌丘興の次男として誕生

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

毌丘倹は字を仲恭(ちゅうきょう)と言い、河東聞喜(かとうぶんき)の人です。父は毌丘興と言い文帝、曹丕の時代に武威(ぶい)太守となり、異民族の反乱を鎮圧して従え河右(かゆう)を開通し名声は金城太守蘇則(そそく)に準じました。

 

漢帝国の宿敵で匈奴の名君(匈奴族)

 

毌丘興は蘇則と共に魏の武将で反逆者の張進(ちょうしん)討伐や胡賊の討伐で功績があり高陽郷侯に封じられました。さらに中央に召喚されて、宮殿や宗廟の造営を担当する将作大匠(しょうさくたいしょう)に任命されています。

 

司馬懿と曹叡

 

毌丘倹は父の死後に爵を継いで平原侯文学(へいげんこうぶんがく)となります。この平原侯と言うのは曹叡(そうえい)が皇太子になる前、格下げされていた頃の称号です。つまり平原侯文学とは曹叡の直属の配下という事で、やがて曹叡が曹丕の東宮(とうぐう)(皇太子)となると曹叡に重用され、転出して洛陽典農校尉(てんのうこうい)となりました。

 

司馬懿

 

ちなみに典農校尉とは、戸籍を別にされた民屯人民の労働を監督するポストで、曹丕の時代から典農校尉が私的な目的で民屯を搾取して富を得られるようになったので豪族羨望のポストとなり、後に政権を握った司馬懿が味方を増やす為に大いに活用したポストでした。

 

では、毌丘倹もそれを利用して富を得たのかというとそうでもないようで、逆に曹叡が諸葛孔明の死後に安心感から宮殿建築マニアになり、農民や士大夫に労役を強いるようになると、曹叡に上奏

 

「私が愚考(ぐこう)しますに、現在天下で急いで排除すべきは呉と蜀の二賊であり、急いで整えねばならないのは衣食です。二賊も滅ぼせず人民が飢え凍えていると言うのに、宮殿をいくら華麗にした所で無益でありましょう」とキツイ諫言をぶちかまします。

 

過労死する諸葛孔明

 

孔明が死んだって蜀が滅んだわけでもねーのに、安心して調子のってんじゃねーよと曹叡は冷や水をぶっかけられた気分だったかも知れません。

 

その後、毌丘倹は荊州刺史に異動になりました。曹叡が耳に逆らう事を言う毌丘倹を栄転の形で洛陽から追い払ったと考えるのは穿(うが)ち過ぎでしょうか?

 

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幽州刺史となり公孫淵討伐に従軍

公孫淵

 

青龍年間(233年~37年)曹叡は遼東(りょうとう)討伐を図り、毌丘倹に軍事と統率の才があると見て荊州刺史から幽州刺史へ異動し度遼(どりょう)将軍、使持節(しじせつ)護烏丸校尉(ごうがんこうい)に任命しました。父は西の涼州で胡と戦っていましたが、毌丘倹は東の幽州で鮮卑(せんぴ)や烏丸と戦う事になったわけです。

 

烏桓族

 

毌丘倹は幽州の諸軍を率いて襄平に至り遼隧(りょうすい)に駐屯。すると、かつて袁尚に従って遼東に走った右北平烏丸単于(ぜんう・)寇婁敦(こうろうとん)遼西烏丸都督率衆(りょうせいうがんととくそつしゅうおう)護留(ごる)がそれぞれ手勢5000人を引き連れて降伏しました。右北平烏丸単于寇婁敦は弟の阿羅槃(あらはん)らを洛陽に派遣して朝貢(ちょうこう)、魏は渠率(きょそつ)の二十余人を封じて侯・王とし馬車や絹などを下賜しました。

 

この勢いで毌丘倹は公孫淵を攻撃しますが、遼隧の戦いで公孫淵に敗北します。曹叡は翌年に大尉の司馬懿を派遣し、中軍及び毌丘倹を支配下に入れて公孫淵を攻撃させ公孫淵を滅ぼしました。

 

司馬懿と公孫淵

 

毌丘倹は功によって安邑侯に進封され食邑は三千九百戸を与えられます。これは公孫淵討伐よりも、それ以前に右北平烏丸単于寇婁敦や遼西烏丸都督率衆王の護留を帰属させた功績が評価されたのでしょう。

 

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三国志主要戦図一覧

 

 

高句驪討伐に成功

高句麗まで攻めるカン丘倹(毌丘倹)

 

公孫淵討伐では司馬懿に手柄を取られた形の毌丘倹ですが、正始年間(240年~49年)に大きな手柄を挙げます。

 

この頃、高句驪(こうくり)が王都を国内城(中国吉林省集安市)に移転。公孫淵に従い、魏と呉に服属しつつ叛いたり従ったりを繰り返していました。しかし、魏が公孫淵を滅ぼすと公孫氏の支配を逃れた高句驪の勢力が盛んになります。

 

進軍する兵士b(モブ用)

 

魏は、高句驪に警戒心を持ち、楽浪・帯方両郡を復興して朝鮮半島の直接支配を目論みこうして毌丘倹は、歩兵と騎兵数万を動員して玄菟(げんと)に出征し、諸道から進軍して高句驪の本拠地に迫りました。

 

三国志 剣閣のお城

 

高句驪王、(きゅう)は歩騎2万人を率いて沸流水(ふつりゅうすい)のほとりを進軍し、梁口(かつこう)で魏軍と戦いますが度々敗れて敗走します。毌丘倹は、さらに高句驪の王宮がある丸都城を陥落させるべく、馬も車も通れないような悪路を進軍、丸都山(がんとざん)を踏破して高句驪の王都を攻め滅ぼし斬首と捕虜は千を数えました。

 

進軍する兵士c(モブ用)

 

ここで毌丘倹は、高句驪人民の反発を招かないように墳墓(ふんぼ)を破壊せず樹木を伐採せず、敵兵の妻子を捕らえたら解放するように命令します。こうして、人民の支援を得られなくなった宮は単独で妻子を率いて逃亡。毌丘倹は一度帰還しました。

 

行軍する兵士達b(モブ)

 

西暦245年、毌丘倹は、再び高句驪を攻撃。高句驪王、宮は逃亡して姿を消し、毌丘倹は玄菟太守王頎(おうき)に追撃をさせますが、ついに捕らえられませんでした。この時の討伐で斬首したり降伏を許したものは八千人あまり、毌丘倹は平定を済ませると開削工事をして農業用水を確保したので人民は恩恵を受けたようです。

 

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合肥新城の戦いで諸葛恪を撃退

諸葛恪の栄光と破滅03 諸葛恪

 

父親さながらに異民族討伐で功績を積み上げた毌丘倹は左将軍に至り、佳節監豫州諸軍事(かせつかんよしゅうしょぐんじ)として豫州刺史を兼領。転じて鎮南(ちんなん)将軍となります。

 

諸葛誕

 

この頃、諸葛誕が東関で戦った時に勝利しなかったので諸葛誕と毌丘倹に命じて任地を交換。諸葛誕が鎮南将軍となって豫州を都督し毌丘倹が鎮東将軍となって楊州を都督します。呉の諸葛恪が合肥新城を包囲すると毌丘倹は文欽と共にこれを防御。太尉司馬孚(しばふ)が中軍を率いてて包囲を解き、諸葛恪は退却しました。

 

忙しい方にざっくり解答03 kawausoさん

 

西暦250年代になると、魏では将軍と土地は切り離され、任地を簡単に交換するような事も可能になっています。これは毌丘倹世代の将軍が、例えば劉備や曹操のような叩き上げで配下の私兵団を個人のカリスマで統率していたのとはまるで違う、強力な中央集権時代を生きていた事実を物語っています。

 

そしてそれは、反乱を起こすには極めて不利な要素でした。

 

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毌丘倹・文欽の乱へ

司馬懿と曹爽

 

毌丘倹はかねてから夏侯玄(かこうげん)李豊(りほう)と交友していました。それはつまり、毌丘倹が曹爽一派に近かった事を意味しています。

 

さらに毌丘倹は曹爽と同郷という事で随分良い思いをし、その反動で司馬氏政権では冷遇され、不満をため込んでいた文欽を仲間に引き込みました。これは高平陵の変で司馬一族が曹爽を追い落とし、さらに少帝を廃帝とし司馬師が権力を握った事に対する危機意識でしょう。

 

流星を見た司馬懿

 

毌丘倹は文欽を抱き込んで西暦256年正月、たまたま出現した彗星(すいせい)を吉兆の印とし、郭太后(かくたいこう)(みことのり)を偽造して大将軍司馬師を批判する文書を書いて挙兵しました。しかし朝廷は司馬師に逆らう事無く毌丘倹と文欽は朝敵となります。

 

行軍する兵士達a(モブ)

 

毌丘倹は、淮南(わいなん)の将や所々の別陣地を守る者や大小の吏民を武力で脅迫し寿春城に連行すると、城の西に祭壇を築いて生贄(いけにえ)を殺し、老弱を分けて城を守らせ文欽と5~6万人の軍兵を率いて淮河を渡り、西の方の頂に到達しました。

 

文欽

 

ここで毌丘倹は城を固く守り、文欽は外に出て遊撃兵となり、当然、長江を越え呉から援軍がやってくるのを待つ構えになります。しかし、最初から呉の援軍を期待する時点で、毌丘倹の反乱の成功が覚束ないものである事は明白で、自ら叛いたというより、司馬師に叛くように仕向けられたのではないかと考えてしまいます。

 

魏に反乱後、討伐されるカン丘倹(毌丘倹)

 

また、兵力にしても脅迫しないと集まらないレベルであり、積極的攻勢に出るには程遠い士気だったのでしょう。持久し呉の援軍を得て乱が長引けば、司馬師の横暴に兵を挙げる者はほかにもいる筈と毌丘倹は考えたのかも知れません。

 

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魏の大軍に押しつぶされる毌丘倹

司馬師

 

毌丘倹が叛いたと聞くと司馬師は中軍と外軍を率いてすぐに行動を起こします。最初に諸葛誕(しょかつたん)に豫洲の諸軍を率いさせて安風津(あんふうしん)より寿春に向かうと擬態させ、胡遵(こじゅん)には青州と徐州の諸軍を率いさせて譙・宋の間に出撃し退路を断たせます。

 

 

こうして司馬師は汝南に駐屯し監軍の王基(おうき)には前鋒諸軍を率いさせて南頓(なんとん)に拠って待機させ、全軍に対し積極攻勢を禁じました。膨大な司馬師の軍勢に包囲された毌丘倹と文欽は進んでも戦えず、退却しようにも寿春が奪われる事を恐れて帰れず成す術を失います。

 

毌丘倹の率いる淮南の将士の家は皆、淮北にあり、投降者が相次いでいき、ただ淮南で徴集した農民だけが地元なのでようやく働ける程度でした。

鄧艾

 

司馬師は毌丘倹の士気を(くじ)こうと、兗州刺史鄧艾(とうがい)を派遣して泰山諸軍(たいざんしょぐん)の万人余りを率いて楽嘉(がくか)に至らせ、あえて弱い振りを見せて文欽を誘います。文欽はこれを知らずに鄧艾を少数と見て夜襲を掛けますが、夜明けになり司馬師の本軍が近づいている事を知り仰天し退却を開始。

 

敗北し倒れている兵士達a(モブ)

 

司馬師がこれを見逃す筈もなく、精鋭の騎兵を放って追撃し文欽は破れて逃走します。毌丘倹は文欽が敗れたと聞くと、恐れ慄いて夜中に城を抜け出して逃走し、軍は崩壊しました。

 

逃げる毌丘倹の下からは兵士がどんどん離れていき、毌丘倹は弟の毌丘秀(かんきゅうしゅう)、そして孫の毌丘重(かんきゅうじゅうと水辺の草の中に隠れますが安風津都尉(あんふうしんとい)部民(べみん)張属(ちょうぞく)が、潜伏情報を得、毌丘倹を遠くから射殺しその首を洛陽にもたらしました。哀れ名将毌丘倹、最期は華々しく戦って討ち取られるのではなく名もなき部民の矢に倒れたのです。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

毌丘倹の乱と言いますが、そのお粗末な最後を見ると毌丘倹が自ら望んで叛いたのではなく司馬師の計略により、その方向へ追い込まれたと考える方が自然な感じです。

 

確かに毌丘倹は、腐敗した曹爽一派に連なる人だったかも知れませんが、当人は洛陽で退廃した政権運営をしていた曹爽一派とは逆に高句驪討伐を果たして魏の勢力拡大に貢献し、現地の灌漑の整備にも尽力した名将軍でした。しかし、戦争には強くても権謀術数には疎い毌丘倹は結局は司馬師の敵ではなく反逆者として歴史の闇に沈んでいく事になりました。

 

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三国志主要人物の出身地図

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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