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曹操からもスカウトが!
優れた人物をかき集めていた曹操。そんな彼も周瑜に目を付けました。そこで早速曹操は周瑜をスカウトすべく「蒋幹」という人物を派遣します。蒋幹は周瑜と故郷が近く、顔見知りでもあったのです。
蒋幹は周瑜に警戒心を抱かせないためか、普段着で彼の元を訪れました。
しかし、周瑜は見抜き、こう言いました。「私は演奏の良しあしを聞き分けることができるのですよ。」と、言い蒋幹をもてなしました。そして孫家の軍営を見せ、孫家からの贈り物も見せびらかしました。
周瑜は「孫家は素晴らしい。私を気遣って下さり、いろんな意見も聞き入れてくださる。どんな説得も無駄ですよ。」と、蒋幹を追い返してしまったのです。この出来事でさらに周瑜の評価は高まったと言います。
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益州を狙い、「天下2分」を狙う
「赤壁の戦い」で曹操に勝利すると、曹操の南下の勢いは緩みます。そこで周瑜はこの隙に劉璋が支配していた「益州」を奪取し、曹操と天下を分けることを計画します。
諸葛亮が「天下三分」を狙っていましたが、周瑜はそれのさらに先をみて、天下を半分にわけて曹操に対抗することをねらっていたのでしょう。
しかし、その作戦が成就する前に周瑜は無くなってしまいます。享年36歳、若すぎる死で孫権の悲しみは尋常ではなかったと言います。
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周瑜の子供たち
若くして亡くなってしまった周瑜ですが、その子供たちはどうなったのでしょうか。周瑜には2男1女がいて、周瑜の跡は「周循」という長男が継ぎました。
彼は周瑜に似た雰囲気を持ち、孫権の娘を妻にしていたようですが、若くして亡くなったと言います。次男の「周胤」は素行が悪く、流刑にされ、そこで亡くなりました。
父の功績があり、かばうものもありましたが、孫権は「あいつは父の功績で引き立てたのにどうしようもないやつだ。」と酷評しています。娘は孫権の皇太子「孫登」の妃になっていますが、早くに亡くなったと言います。
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三国志ライターみうらの独り言
周瑜の逸話は彼のすばらしさを表すものばかりですね。早くに亡くなったのが悔やまれます。もし周瑜が長生きしていれば、劉備の益州獲りもなく、天下は曹操と孫権の対決になったかもしれませんね。
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