趙雲は蜀(221年~263年)の将軍です。公孫瓚に従軍していましたが、そこで知り合った劉備と意気投合して、以降は配下となり亡くなるまで戦います。この趙雲には『趙雲別伝』という史料があります。
正史『三国志』著者の陳寿は史料として採用していませんが、『三国志』に注を付けた裴松之はこの史料を残しました。今回は『趙雲別伝』から趙雲の逸話を紹介します。
※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。
仕える主は仁政を施す人
趙雲は袁紹が統治している冀州常山郡真定県の出身でした。袁紹に従うのが普通なのですが彼は敵対勢力である公孫瓚のもとへ義勇兵をつれて従軍を願い出ます。
袁紹と敵対していた公孫瓚は趙雲が、義勇兵をつれてきたことから自分の味方になったと思い「君の故郷の人は、ほとんどが袁紹についたけど、君だけは正しい道を選んでくれてよかったよ」と言いました。
しかし趙雲は、「いや、私たちの故郷は仁政を行う人に従うだけです。袁紹殿を悪いとも言いませんし、公孫瓚殿もひいきしません」とあっさりしています。袁紹は多くの知識人を登用していることから、統治能力に関しては優れていたと分かります。趙雲の故郷の人のほとんどが、袁紹についた理由はそれでしょう。
ただし世は乱世なので、袁紹の手法では乗り切れないと思った趙雲は対抗勢力である公孫瓚のもとに行ったのだと思われます。だが、公孫瓚の実力でも乱世を乗り切れないと悟った趙雲は当時、彼の客将である劉備に従うことにします。結果として、これが趙雲にとってプラスになったのです。
結婚はお断りします!
建安14年(209年)に劉備は荊州の桂陽を攻撃します。桂陽太守の趙範は、すぐに降伏しました。趙範は野心家で趙雲と名字が同じという理由だけで縁続きになろうと画策します。
趙範は亡くなった兄に樊氏という美人の妻がいたので、結婚をすすめます。だが趙雲は丁重にお断りをいれました。趙雲の知り合いは結婚をすすめますが、「趙範は切羽詰まって降伏したから、何を考えているのか分からない」と趙雲は語りました。
しばらくすると、趙範は逃亡したと聞きますが趙雲は特に未練はありません。
恩賞は受け取らず
建安19年(214年)に劉備は益州の劉璋を降伏させて蜀を奪います。この時に劉備は部下に土地を恩賞として与えようとしますが、趙雲は断りをいれました。
「霍去病は匈奴が滅亡していないことから、屋敷や土地の恩賞を断りました。天下はまだ定まっていません。益州の民衆は今回の戦で被害にあいました。住宅や田畑を返還して仕事復帰させて、それから賦役・徴税を行ってもよいではありませんか」
霍去病は前漢(前202年~後8年)の匈奴討伐の名将ですが若くして世を去りました。霍去病が従軍中に恩賞を受けなかったのは有名な話です。劉備は話を聞くと納得して趙雲の言う通りにしました。
三国志ライター 晃の独り言 『趙雲別伝』とは・・・・・・
以上が『趙雲別伝』の有名な逸話でした。趙雲は正史『三国志』で随一の非の打ち所がないキャラクターです。筆者が知っている限り中国史で、ここまでクリーンな人物はいませんので筆者も大好きであります。
ただそのためなのか、今回紹介した『趙雲別伝』に別の見方があるようです。
清(1644年~1911年)の学者の何焯・李光地は正史『三国志』では功績が少なく描かれている趙雲が、なぜ『趙雲別伝』では多く描かれてのだろうかと疑問を抱きます。
分析の結果、ある仮説が出されていました。『趙雲別伝』というのは趙雲の親族が作った家伝をもとに改編したもの。親族が作成したものだと、良いことしか書かれていないからです。そういう仮説ならば筆者も少しだけ納得しました・・・・・・
※参考
・林田慎之介『人間三国志 豪勇の咆哮』(初出1989年 のちに集英社文庫1992年)
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