黄巾の乱が失敗した最大の原因は教祖の張角がすぐに死んでしまったせいだった![真実の三国志]

2023年3月2日


張角は歴史の表舞台に登場

 

黄巾の乱(こうきんのらん)と言えば教祖である張角(ちょうかく)がいますが、この人物を皆さんはどう思っていますか?

 

張角(ちょうかく)黄巾の乱(こうきんのらん)で活躍した人物とは思わない、むしろ敵対している悪人と言う認識の人が多いのではないでしょうか。その認識は半分正しく、半分間違いと言わざるを得ません。

 

そこで今回はこの張角(ちょうかく)について解説していきたいと思います。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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その半生は知られることなく

茶を飲む張角(太平道)

 

張角が黄巾賊(こうきんぞく)を率いる教祖となるまで何をしていたのか、それは分かっていません。なので少し三国志演義(さんごくしえんぎ)の方で紹介しますが、こちらでは弟二人と共に「貧乏な秀才」として描かれています。

 

優秀であったが役職として取り上げられることなく貧しい生活をしていた張角は仙人に出会って不思議な術を授かり、それを使って人々を助けながら信者を集め、大きな集団となって漢王朝に謀反を起こしていきます。

 

ここまではあくまで演義の張角ですが、時は漢王朝末期(かんおうちょうまっき)

 

宦官VS外威 三国志

 

役職を金銭で取引できるようにしたために賄賂が横行してしまい、お金を積めば誰でも高位の役職に就くことができました。逆を言えばどれだけ優秀であっても賄賂を渡せなければ役職に就けなかった…とも言えます。

 

なので張角ももしかしたら優秀であったのに家が貧しいばかりに役職に就けなかった一人であったのかもしれませんね。記述されていないとはいえ、このように時代背景と合わせると少し想像ができるのも三国志の面白さです。

 

 

 

黄巾の乱の始まり

暴れる黄巾党と張角

 

さて話は大きく飛ばしますが、黄巾の乱が起こります。

 

黄巾の乱はそもそも漢王朝の腐敗が原因とも言われ、そもそもは官位をお金で売買したのが始まり。この売買自体は資金難を解消するためであり成功したと言えるのですが、そこからただ官位(かんい)を買うだけでなく。官僚たちに賄賂を積んで官位を手に入れるようになっていってしまいました。

 

疫病が蔓延した村と民人

 

賄賂を払いさえすれば官位が貰えることで優秀であってもお金が払えなければ役職に就けなくなり、また賄賂のために民衆から重い税を取るようになりました。しかもこの当時、酷い不作が起こってまともに食べるものもなくなっています。

 

それなのに役人は高い税収を取るのを止めようとしない…民衆たちの不満は非常に大きく、この世を正してくれる救世主を待ち望み続けていました。

 

太平道の祖・張角(黄巾賊)

 

そこに現れたのが張角です。彼は不思議な術で病を治したり、天候を操るなどの奇跡を起こしました。それはきっと民衆にとって待ち望んだ英雄そのものだったことでしょう。

 

民衆は張角の元に集まって大きな集団となり、ついに反乱を起こします。これこそが黄巾の乱です。

 

 

黄巾の乱の最中、既に張角はいなかった!

黄巾党員

 

張角は「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし、歳は甲子に在り、天下大吉」というスローガンを立てて民衆を鼓舞。

 

黄色い頭巾を身に付けたために黄巾賊と呼ばれ、漢王朝への反乱として各地で大勢の民衆が蜂起しました。しかし漢王朝もすぐさまこれに対応するべく何進(かしん)を大将軍にして本拠地である洛陽(らくよう)の防衛を開始。その一方で討伐軍を編成して各地で乱の鎮圧に当たらせました。

 

張角逝く

 

そしてこの黄巾の乱の開始直後、張角(ちょうこう)は病死していたのです。つまり黄巾の乱を起こした張本人とも言える人物は既にいないのです。

 

黄巾を装着する黄巾賊

 

教祖であり総大将でもあった張角を失ったのは大きく、集まって来ていた民の心も離れていき、そこに討伐軍たちが攻めてきたことで黄巾賊は瓦解…したように見えて、そうでもありませんでした。

 

張角を始めとした兄弟たちなどは殺されましたが、一部の人々はまだまだ黄巾賊として暴れまわったことで民衆は余計に混乱、そして漢王朝の腐敗は決して改善されることもなく、人々の不安は拭われることなく三国志の世界が始まって行くのです。

 

 

関連記事:黄巾賊の組織体制はどうなっていたの?太平道を布教させた宗教団体をミエルカしてみるよ

 

 

 

世を正そうとした一人

太平道 黄巾賊

 

張角は黄巾の乱を鎮圧した時にはすでにこの世になかったので、討伐軍は「棺を暴いて遺体を刑罰に処し、斬首した首を洛陽で木に吊るす」という処分を受けました。確かに国家に対して張角は反逆を行いましたが、それは元々王朝の腐敗が招いたこと。

 

そして彼自身が民衆を助けたことは紛れもなく真実であり、もしかしたらその要請に従って乱を起こしたとも考えられます。

 

そう考えると張角もまた三国志の中の、一人の英雄とは言えないでしょうか?少なくとも彼は乱れた世の中を正そうとした、そのために行動した一人であると筆者は考えています。

 

三国志演義(さんごくしえんぎ)のイメージからどうしても悪人の印象が強い人物ですが、色眼鏡で見ることなく、彼がどう行動して何をしようとしていたのか…それを三国志の中から読み取って欲しいと思います。

 

三国志ライター センの独り言

三国志ライター セン

 

張角の悲劇は彼の死後、よりにもよって黄巾賊が各地を荒らしまわったこと。

 

このために黄巾賊はただの反乱軍であり、民衆からも恐れられる存在になってしまったことです。

 

それを彼が知ったなら、もし彼が心から世を正して民衆を救おうとしていたとするならば、それはどれだけ無念だったのか…華々しい活躍こそ描かれていないとはいえ、その彼の無念と活躍にも注目してみて下さいね。

 

 

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セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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