明智光秀のデビュー戦は籠城戦?謎に包まれた光秀の前半生を解く手がかり「米田文書」とは?


明智光秀 麒麟がくる

 

2020年のNHK大河ドラマ麒麟(きりん)がくるの主人公は明智光秀(あけちみつひで)です。

本能寺(ほんのうじ)の変で主君信長(のぶなが)を討った事で戦国時代でも随一の知名度を持つ彼ですが、信長に仕えるようになった以前の事は、

史料が少なくあまりわかっていません。

しかし、近年の研究により信長に仕える前の若き光秀が田中城という城に籠城していたという記録が出てきました。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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永禄九年(1566年)光秀の初出史料

 

近年、信長に仕える以前の光秀の足跡を記したものとして米田文書(こめだぶんしょ)が注目を集めています。

これは、熊本藩次席家老、米田家に代々伝わる文書で現在は熊本大学付属図書館の所蔵品になっています。

この米田文書に含まれる針薬方(しんやくほう)奥付(おくつき)に以下の記述が存在するのです。

 

右一部、明智十兵衛尉(あけちじゅうべえじょう)高嶋田中(たかしまたなか)籠城(ろうじょう)之時口伝(くでん)

 

しっかりと明智十兵衛の名前と光秀が高嶋田中城に籠城していたと書かれています。

内容は光秀に医学の心得があり、それを聞き書きしたものだそうです。

光秀が医学に通じていたというのは、あまり聞きませんが、後に医師である施薬院全宗(せやくいんぜんそう)とも、そうとう密に交流する事から、

有り得ない事ではないようです。

 

 

 

米田文書は信用できるのか?

 

もちろん、いかに古い記録でも、思い違いや嘘や誇張、伝聞による情報変質など光秀の名前が出るから即新事実とはいえません。

その意味で米田文書は信用できるのでしょうか?

 

その点は信用できると考えられています。

というのも、熊本藩は光秀の娘婿(むすめむこ)細川忠興(ほそかわただおき)の藩であり、忠興の父の藤孝(ふじたか)と光秀は若い頃から行動を共にした間柄だからです。

そして、この米田文書、針薬方を記述したのは、米田貞能(こめださだかず)と言い、足利義昭(あしかがよしあき)の将軍就任翌年、永禄十二年(1569年)から

細川藤孝の部下になり義昭の追放後は、そのまま藤孝に仕え代々の家老職、細川家米田氏初代になった人です。

 

どこの誰とも分からない、いつの時代か分からない人が書いたのではなく、光秀と同時代に、光秀と近しい関係にあった細川藤孝の重臣が

書き記したわけで信憑性は高いと言えるでしょう。

 

 

 

文書を書いた沼田勘解由左衛門清延とは?

 

この米田文書、針薬方の記述は沼田勘解由左衛門(ぬまたかげゆざえもん)という人が、明智光秀から聞き取って文書にしていたものを

永禄九年(1566年)十月二十日、米田貞能がさらに近江坂本で筆写したとされています。

ここで疑惑が生じてきます、では、沼田勘解由左衛門とは何者なのか?

明智光秀にかこつけて嘘を喋ったのではないか?という疑惑です。

 

しかし、この沼田勘解由左衛門もしっかりした履歴の持ち主で、若狭三方郡熊川城主(くまかわじょうしゅ)沼田光兼(ぬまたみつかね)の四男で父と共に足利義昭に仕えています。

永禄六年諸役人附にも、父と共に名前が出てくるようです。そればかりでなく、兄の沼田光長(ぬまたみつなが)も足利義輝の外様詰衆(とざまつめしゅう)として仕えていて

公家である中院通勝(なかのいんみちかつ)の日記、継芥記にも「若州奉公衆 沼田弥太郎」として登場する人物です。

 

そして、勘解由左衛門の兄で義輝に仕えた光長は、細川藤孝の妻である麝香(じゃこう)の父であり、勘解由左衛門もこの縁で藤孝の家臣になっています。

こうしてみると沼田勘解由左衛門は、どこの馬の骨という人ではなく足利将軍家とも深い縁があり、細川藤孝とも繋がり

藤孝の重臣である米田貞能とも会話を交わせる立場にあったと言えるでしょう。

もちろん、義昭に仕えていた奉公衆の光秀とも面識がある可能性は高く米田文書の信憑性(しんぴょうせい)は高いと考えられます。

 

 

 

 

田中城籠城の経緯

 

田中城は現在の滋賀県高島市安曇川町(あどがわまち)の地名で、比良山系の泰山寺の台地から南東に突き出た丘の先に田中城があります。

ここは、当時の近江の戦国大名、六角義賢(ろっかくよしかた)の支配下にありましたが、近江で勢力を伸ばしていた浅井氏の圧迫を受けていました。

 

この城は本城である南市城の詰城でした。

詰城というのは、いざという時に平城では守り切れない時に立て籠もる城で最期の拠点というような意味合いの場所です。

例えば、武田信玄の居城である躑躅(つつじ)ヶ崎館は普段の居城で、ここで守り切れない時は背後の要害山城に詰めていました。

 

田中城の本城である南市城は、田中江と共に安曇川の舟運により琵琶湖の水上流通と繋がる陸上の重要拠点でした。

永禄八年以前の時点では、六角氏とその隣の若狭武田氏は将軍足利義輝の大事な後援者であり財政基盤でもありました。

また田中城の城主の田中氏も同族の高島氏、朽木氏と同様に、代々、非常に将軍家に忠誠厚い家柄でした。

 

なので田中城を浅井氏に落とされると、将軍家は支持者も財政基盤も若狭武田氏への避難経路も抑えられるというまずい事になったのです。

 

そこで、将軍家は田中城落城を座視できず、奉公衆を派遣して籠城させ、その中に足軽衆という身分で光秀もいたという事でした。

また、沼田勘解由左衛門の出身である熊川城は、田中城に近く勘解由左衛門は救援に赴いた可能性が高そうです。

つまり、勘解由左衛門は田中城籠城時に直接に光秀から医学についての話を聞かされて居たのかも知れません。

それが為になる話だったからこそ、文書に残していたのでしょう。

 

戦国時代ライターkawauso編集長の独り言

 

この田中城は1573年に織田信長によって攻略され、後に明智光秀に与えられその後、廃城となる運命を迎えました。

城主であった田中氏からは田中吉政が出て、豊臣秀吉、後に徳川家康に仕え、関ケ原の合戦にも参加、

三河岡崎城城主や筑後柳川城の城主などになり、城下町の建設と整備に才能を発揮しています。

田中籠城の時、光秀は1540年誕生説をとると、26歳の青年武将になり、かなり初陣に近い時期の合戦だったのではないかと思います。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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