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[どうする家康]今川義元の人質で培った原点を探る

2023年4月25日


 

徳川家康

 

今回は徳川家康(とくがわいえやす)の原点として今川義元(いまがわよしもと
)
の人質生活に注目します。徳川家康といえば、幼少期に織田信秀(おだのぶひで
)
や今川義元の人質生活を送っていた人物で、晩年に江戸幕府を開き、豊臣家を滅ぼしました。

 

今川義元

 

この記事では、前半で今川義元と徳川家康の生い立ちについてそれぞれ取り上げます。後半では今川義元の人質になった頃の徳川家康と今川義元の軍師太原雪斎(たいげん せっさい)との出会いについて話を進めます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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今川義元とはどんな人?

寄親・寄子制を導入する今川義元

 

今川義元は1519年に駿河の戦国大名今川氏親の五男として生まれました。今川義元は善得寺に預けられ、修行の生活を送っています。今川氏親の死後に家督争いが起こります。家督争いに勝利し、還俗して駿河国の戦国大名となりました。寺で修行していたときの軍学の師匠だった太原雪斎は今川義元の軍師となります。

 

鉄砲隊を率いる今川義元

 

今川義元は朝廷との交渉役を担うとともに今川氏親の設計した寄親・寄子制(よりおや・よりこ
)
や分国法『今川仮名目録(いまがわかなもくろく
)
』を引き継ぎます。織田信秀との戦いでは、鉄砲に注目し、鉄砲による集団戦法を実践しました。織田信秀との戦いに勝利すると、三河国を手に入れるとともに松平元康(後の徳川家康)を人質にします。

 

若き頃の織田信長に敗れる今川義元

 

1560年、京に上るために2万5千の大軍を率いて尾張国の戦国大名・織田信長を攻めましたが、織田信長(おだのぶなが)の奇襲により討ち取られました。

 

 

 

徳川家康とはどんな人?

徳川家康

 

徳川家康は1542年に松平広忠の嫡男として三河国に生まれました。当初、徳川家康は松平元信、初陣のときに元康と改名しています。当時、松平家は今川義元の支配下でした。幼少期の徳川家康は人質生活を送っています。

 

虎といちゃつく織田信秀

 

最初は織田信秀の人質でしたが、小豆坂の戦いで今川義元が織田信秀に勝利すると、徳川家康は今川義元の人質となりました。

 

織田信長

 

1560年に桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、三河国の岡崎城に入り、今川家から独立します。1562年に徳川家康は織田信長と同盟を結び、この頃から徳川家康と名前を変えます。

 

小牧・長久手の戦い 秀吉 vs 家康

 

1582年に本能寺の変で織田信長が自害した後、1584年に小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉(とよとみひでよし)と直接対決をします。この戦いは実質徳川家康の勝利で終わりましたが、豊臣秀吉と講話したことで、徳川家康は豊臣秀吉の配下となります。相模の北条氏を滅ぼすと、240万石を与えられ、江戸に移ります。

 

6時間で決着がついた関ヶ原の戦い(石田三成)

 

1600年の関ヶ原の戦いで、石田三成(いしだみつなり
)
が率いる西軍を破ると、1603年に江戸幕府を開きます。1615年に大坂の陣で豊臣秀頼を滅ぼした後、1616年に病死しました。

 

 

徳川家康の原点は今川義元の人質生活にあり

天下を収めた徳川家康

 

徳川家康といえば野戦が得意で有名です。徳川家康の野戦好きについて、原点となったのは今川義元の人質生活であると考えられます。人質だった頃に太原雪斎から軍学の講義を受けたといわれています。

 

太原雪斎

 

太原雪斎の死後、桶狭間の戦いで今川義元が戦死しました。今川義元は2万5千の大軍を率いていたにもかかわらず、わずか数千の織田信長の奇襲により討ち取られました。

 

今川義元の首を取り名を上げた毛利良勝

 

当時、徳川家康は寄親・寄子制の優れた点を学ぶとともに桶狭間の戦いで起こっていた弱点も学んでいたと考えられます。結果として、小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いで大軍を率いるときに役立ったのかもしれません。

 

 

戦国時代ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回は徳川家康の原点として今川義元の人質生活に注目しました。この記事の後半では、徳川家康の政治と戦い方の原点として今川義元の人質だった頃に注目しました。太原雪斎から軍学の講義を受けたことや桶狭間の戦いでの今川軍の敗北が後の家康の戦い方に役立った可能性について触れました。

 

最後に、今川義元を手本にした人物として織田信長が挙げられます。徳川家康とともに今川義元から学んだことと今後の領国経営にどのように生かしたのでしょうか。今後の課題にしたいと思います。

 

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オフィス樋口

自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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