こんにちは。光月ユリシです。拙著「三国夢幻演義 龍の少年」に関心を持ってくださり、ありがとうございます。一年余りにわたって続いた物語もついに最終回です。ようやく襄陽に到着した孔明はひと時の安息とともに少年時代の終わりを迎えます。それに伴い、この解説も今回で最後になります。最後は襄陽関連について解説します。
新しき州都・襄陽
襄陽は劉表が荊州府をそこに開いて以来、急速な発展が始まります。それ以前の荊州府は荊南の武陵郡漢寿(洞庭湖西岸)という場所にありました。つまり、荊州の中心地はずっと南にあったのです。
ところが、群雄が割拠してあちこちで反乱が起き、荊南も例外ではありませんでした。そこで、劉表は荊南には行かず、襄陽に荊州府を開設したのです。もし、劉表が慣例どおり武陵郡に赴任していたら、三国志の展開も違っていたことでしょう。
劉表が襄陽を州都とし、荊州に安定をもたらしたことで、襄陽には全国から人が集まってきました。三国志に名の見える有名人たちも続々と襄陽に集ってきて、彼ら識者たちで形成された学術サロンは荊州文学の発展に寄与します。
私はこのサロンを洛陽太学の荊州版「荊州学府」という学校として描いてみました。そこに孔明も関係するようになり、仲間たちや他の人物との出会いに繋げています。
名家・崔氏と崔州平
崔氏は後漢の名族で、草書家として名を遺す崔瑗・崔寔(さいえん・さいしょく)親子は崔州平の祖先です。後漢の太尉・崔烈の子が西河太守の崔鈞(さいきん)と崔州平ですが、新唐書という史書によれば、崔鈞の字が州平ということです。兄は均、字を元平で、父に銅臭発言したのは議郎だったこの崔均ということになっています。
私も最初は崔鈞と崔均が字形を混同しただけの同一人物で、崔州平をその弟かと考えていましたが、中国のネット情報では、上記の解釈が優勢なようです。孔明の友人として崔州平を描く上で、そこはあいまいにできないので、崔鈞=崔州 平説を採用しました。しかし、そう考えると、崔州平は群雄の一人であったにもかかわらず、他の要職に就かず、襄陽で学問をしていたことになります。そして、孔明よりずっと年上ということになりますね。
でも、物語の展開上、その方が面白いかなと思えてきました。今更変更もできませんから、そこはそのようにご理解くださいませ。
孔明の二人の姉
資料では、孔明には二人の姉がいたとなっています。上の姉は荊州蒯氏に嫁ぎ、下の姉は龐氏に嫁いでいます。名前は記録がないので、架空のものですが、父の諸葛珪や兄の諸葛瑾とそろえて、王偏を用いた名前にしました。
一番上の姉は蒯祺(かいき)という人物の妻です。この蒯祺、後に蒯越らと共に曹操に降って房陵太守となります。後に劉封が攻めて降伏を勧告しますが、拒否した挙句、一族皆殺しにされました。
これをそのまま受け取るなら、孔明の姉もこの時に死んだのでしょう。そのため、劉封は孔明の恨みを買ったという話があります。後に劉封が劉備に死を賜るのも、実は孔明の意趣返しがあったのか・・・?
下の姉は龐山民の妻となり、子は晋の牂牁(そうか)太守・龐渙(ほうかん)です。龐山民も魏に仕えて、敵味方に分かれますが、晩年、孔明は甥である龐渙のために手紙を送っています。離れていても、家族愛ですね。
【独り言】
私なりの発想と解釈で描いた孔明の少年時代の物語、「三国夢幻演義 龍の少年」は今回でおしまいです。いかがだったでしょうか?
ご愛読とご声援に心から感謝いたします。本当にありがとうございました。
思えば、長沙在住の時にこの作品を書き上げて、自分なりの達成感がありました。
その時は、こういう形で発表するなど考えてもいませんでしたが・・・。
ところが、完成後も妄想が溢れて止まらなくなってしまい、「龍の少年」だけで終わらせるのが何だかもったいなく思えてしまいました。そうして間もなく続編の執筆に取り掛かったのでした。まだだ。まだ終わらんよ・・・
一つの終わりは一つの始まり。少年は青年へと成長し、新たな物語が始まります。
・・・ということで、「三国夢幻演義 龍の青年」、乞うご期待!
三国夢幻演義 龍の少年 第1話「命の山」見逃し配信
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