明智光秀は軍事面において優れた能力を発揮した人物でした。その一例として本圀寺の戦いがあります。
明智光秀は三好三人衆から本圀寺を守る戦いで、大筒を連発し本圀寺の防衛に貢献。このように軍事手腕に優れていた明智光秀ですが、行政手腕にも優れた能力を発揮し、農民を大切にしていたのをご存知でしょうか。
農民に優しい政治を行っていた明智光秀
明智光秀はどのような政治を行っていたのでしょうか。ここでは明智光秀が丹波を統治していた時の政治について紹介したいと思います。
明智光秀は織田信長から丹波をもらうとこの地の政治を行っていきます。
丹波の国は豪族の力が強く、明智光秀がこの地を平定した後も豪族達の力が根強く残っていました。そのため明智光秀はこの地の統治を行う際、農民に優しい政治を行っていきます。
明智光秀はまず丹波の国に徳政令を出して、民衆の安定を図りつつ、領内の当地をスムーズにしていきます。
また明智光秀は年貢以外の税を農民たちに加えない布令を出し、農民に優しい政治を行っていきます。
農民から感謝された明智光秀
明智光秀は上記の政策のほかに農民の為に新たな政策を実施。明智光秀が行った政策は福知山城の近辺に流れる由良川の改修です。明智光秀は福知山城を改築した際、寺院の石塔を石垣として用いて由良川の水路を変化するように堤防を建築します。
この結果、福知山の城下町では水害に悩むことが減ったそうです。そして福知山城の城下町の人々は明智光秀の死後、彼の功績を称えて、御霊神社を建て、明智光秀の霊を慰める御霊まつりを行ったそうです。
現在でも御霊まつりは行われているそうなので、気になる方是非行ってみてください。このように明智光秀は農民に優しい政治を心がけていましたが、農民たちに裏切られることになります。
農民に討ち取られた明智光秀
明智光秀は領内の統治を行う際、農民に優しい政治を行っていましたが、明智光秀の最後は農民に裏切られて亡くなってしまいます。明智光秀は羽柴秀吉に敗北後、少ない従者を従えて本拠地の坂本城へ撤退を図ります。光秀主従は伏見・大亀谷・勧修寺までの道中は何事もなくスムーズに工程を進めることに成功していました。
しかし光秀主従は小栗栖村近辺に差し掛かった時、農民の襲撃にされてしまいます。明智光秀や彼に付き従っていた家臣は奮戦。
しかし明智光秀は藪の中から突如出てきた槍に脇腹を突かれて亡くなってしまうのでした。明智光秀は農民に優しい政治を行っていましたが、最後は農民の攻撃を受けて亡くなってしまうのでした。
戦国史ライター黒田レンの独り言
どうして明智光秀は農民の攻撃を受けることになったのでしょうか。
ここからはレンの予想になります。
明智光秀が農民の攻撃を受けることになった理由は羽柴秀吉からの布令で明智光秀に賞金首がかけられていた事が考えられます。個人が明智光秀を討ち取ればかなりの報酬が手に入ると思いますが、村総出で明智光秀を討ち取ってもそれなりに恩恵を手にすることができたでしょう。
例えば村総出で明智光秀を討ち取れば年貢を○○期間無し等の褒美がかけれていた可能性があります。そのため農民たちは明智光秀を討ち取るために村総出で、彼を討ち取るために作戦を考えていたことでしょう。
例えば明智光秀がどこにいるのか情報収集をしたり、小栗栖近辺で明智光秀一行を待ち受けていたかもしれません。このような作戦を計画していたと仮定すれば、明智光秀が農民の襲撃によって討ち取られてしまってもおかしくないのですが、みなさまはどのように思いますか。
・参考: 明智光秀 野望!本能寺の変 (新人物文庫)
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