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[甲斐の虎]天下人信長・家康も畏れた武田信玄の真実

2023年10月7日


武田信玄

武田信玄

 

甲斐(かい)の虎と呼ばれ、無敵の騎馬軍団と共に戦国時代に勇名を馳せた武田信玄(たけだしんげん)

その存在は、天下を手中に収めんとした織田信長(おだのぶなが)を恐れさせ、徳川三百年の太平を築く徳川家康(とくがわいえやす)にウ〇コを漏らさせる程でした。

現在でも、山梨県の人々に慕われる戦国の巨人、武田信玄は、どんな人物だったのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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下克上の世の中、武田家でメキメキと頭角をあらわしていった信玄

武田信玄

 

武田信玄の父である武田信虎(たけだのぶとら)は、合戦上手でした。

武田信虎は、郡内(都留市)の小山田氏(おやまだし)とも婚姻関係を結ぶなど、巧みな外交手腕を発揮しました。

また、合戦においても素晴らしい戦略を用いて、勝利を収めてきたため、戦上手と称されました。

また、当時強大な権力を持っていた今川家とも和睦するなどして、武田家の地位を固めて行きました。

現在の甲府で武田城下町と呼ばれる城下町を整備し、家臣を集住させたのもこの武田信虎なのです。

 

優れた戦略を立てることができ、巧みな外交手腕を発揮する…そんな戦国武将の鏡のような信虎の息子である武田信玄は、

さぞかし父に愛されたのだろう、と思いきや、実は信虎が愛情を注いだのは信玄ではなく、信玄とは4歳年が離れた弟の信繁だったのです。

子どもの頃から利口で頭の回転が速かった信玄のことを、父である信虎は疎ましく思っていたようです。

実際、信虎は次期武田家の当主を信玄ではなく、信繁にさせようと考えていたようです。

戦国時代において、一般的には兄のほうを当主とするので、ここからも信虎がいかに信玄のことを良く思っていなかったかが伝わってきます。

 

最終的には、信玄は父信虎を追放します。

しかし、斎藤義龍(さいとうよしたつ)など他の戦国武将と大きく違うところは、信玄は追放先の今川家に毎年しっかりお金を送り続けていたということです。

武田信玄は肖像画に残されている逞しい見た目から、豪快なキャラクターというイメージを持ちやすいですが、

実際は細やかな気配りや配慮ができる人物であったのです。

 

 

 

超がつくほど用心深い信玄が作った軍隊は、実力主義だった!

超がつくほど用心深い信玄が作った軍隊は、実力主義だった!

 

甲斐一国を治め、「甲斐の虎」とも呼ばれた信玄は、実は超がつくほど用心深い性格でした。

また、一度は兄を差し置いて家督を継ぐようになってしまった信繁ですが、信玄と信繁の仲は良かったようです。

また、信玄は独断で政治を行うことはせず、武田信玄は、武田信虎を追放するときから家臣との会議を行うようにし、

皆の意見も取り入れながら国政を運営していくようにしました。

重臣たちが意見を述べ終わると、武田信玄が調整役となって意見を取捨選択してまとめ、重臣全員が納得の行く決定を下したそうです。

このようにTOPが上手に意見を掬い上げると家臣の不満が溜まりにくくなり、謀反(むほん)をしようという気持ちも起こりにくいのではないでしょうか。

さて、そんな信玄が編成した軍隊は、実力主義として知られていました。

 

家柄やしきたりといった従来の慣習に縛られることはなく、武田軍で功績をあげた者はどんどん出世していくことができたのです。

信玄は積極的に合戦を仕掛け、信濃や諏訪と勢力を拡大させて行き、功績のあった者に所領を加増しました。

武田軍の武将たちも信玄の期待に応えることができるように一生懸命戦ったので、武田軍の強さは日本一と称されるようになり、

有名な武将が数多く誕生するようになったのです。

 

 

武田信玄と上杉謙信

上杉謙信

 

武田信玄と上杉謙信は、「敵に塩を送る」のエピソードなどが残り、良きライバル同士であったことで知られています。

実際、信玄の弟が戦で命を落としたときには、信玄が嘆き悲しんだのはもちろんのことですが、謙信も彼の死を惜しんだとされています。

信玄は領土拡大を目指して西の信濃へと侵攻を始めたとき、信濃には既に村上義清や高梨政頼といった豪族が力を伸ばしていましたが、

信玄はこれを次々討ち倒し、領土を拡げていきました。

しかし、そこで立ちはだかったのが、甲斐の虎としてその名を知られていた信玄に対して、越後(えちご)の虎の異名を持つ長尾景虎、

後の上杉謙信だったのです。

武田信玄と上杉謙信が戦った、川中島の戦いは、今でも多くの日本史ファンを魅了し続けていますが、結局ははっきりとした勝敗は着きませんでした。

 

 

戦国時代ライター星野まなかの独り言

 

戦国時代というと、残酷無比(ざんこくむひ)な大名たちが力にモノを言わせて周辺を併合していった時代という見方もあります。

確かに人権等という概念のない時代、今の日本では考えられない人権蹂躙(じんけんじゅうりん)が当たり前にあったのは事実です。

しかし、一方で現代まで名前が残るような戦国武将は、ただ強いばかりではなく、部下の意見をくみ上げたり

信義を大事にしたり、領民を手厚く保護したりしていたのです。

その意味で武田信玄の生き方は、現代人にとっても十分な参考になると言えるのではないでしょうか?

 

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星野まなか

歴史上の偉人から人生の教訓を学んでいます 好きな歴史人物:諸葛亮孔明、織田信長 何か一言:文献を読むことが好きです。 「はじさん」に関わらせていただけることをとても嬉しく思います。

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