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[鎌倉時代の美男子]源義経・木曽義仲、イケメンだった!?

2023年11月17日


 

鎌倉時代の侍

 

 

日本で初めての武家政権である、鎌倉時代。それまでの貴族中心の社会とは、世の中の流れが大きく変わっていきました。そして、激動の時代には、後世まで語り継がれるような活躍をする人物が現れることが多いです。

 

最終的に鎌倉幕府を開いたのは源頼朝(みなもと の よりとも
)
でしたが、源義経(みなもと の よしつね
)
木曽義仲(みなもと の よしなか
)
も、鎌倉幕府が成立するためには欠かすことのできない人物であったといえるでしょう。しかし、義経は奥州藤原(おうしゅうふじわらし
)
氏に追い詰められて自刃、義仲も粟津の戦いにて、志半ばで討ち死にしてしまいました。

 

ところで、このふたりは、かなりの美形であった、という記述が残されています。義経は、源氏盛衰記には色白で容貌が優美であると書かれています。義経記にも、色がとても白く、楊貴妃のような見た目であるという記述があります。しかし、実際は背が低かったようです。義経の母である常盤御前は、絶世の美女でした。

 

また、木曽義仲は、源平衰退記では、美男であるが、田舎者で粗暴な振る舞いが目立つと書かれています。人情深いところもあった義仲は、近しい仲間からは大変慕われていました。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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北条政子(ほうじょう まさこ
)
は嫉妬深い女性だった!?

北条政子とラブラブな源頼朝 鎌倉 女性

 

 

さて、鎌倉時代を代表する女性といえば、北条政子の名前が浮かぶのではないでしょうか。頼朝の妻であった政子といえば、後鳥羽上皇の挙兵の際に、鎌倉の御家人たちに対して「頼朝公の恩は山よりも高く、海よりも深い…」という演説を行い、彼らの心をまとめた、というエピソードが有名です。

 

政子は、義経を慕う舞を舞った静御前に対して激怒した頼朝をなだめたり、頼朝の死後も頼りない2代将軍の頼家を諌めたりするなど、他にも数多くのエピソードを残しています。

 

しかし、政子は、頼朝の浮気相手に対しては容赦しない姿勢を貫いており、一夫多妻制が当たり前であった鎌倉時代にしては、異例の嫉妬深さをみせています。なかでも有名なのが、頼朝と恋仲になっていた亀の前という女性に対する嫉妬です。

 

亀の前は、見た目が大変美しいだけでなく、穏やかで優しい性格であり、頼朝はすっかり魅了されていたようです。気性が激しい政子とは、正反対のタイプの女性ですね。頼朝と亀の前の浮気を、妊娠しているときに知った政子は激怒し、亀の前が住んでいた邸宅を打ち壊すように命じたのです。浮気相手が住んでいた邸宅を壊すとは、現代から見てもなかなか嫉妬深い女性であると考えられませんか?

 

頼朝は他の女性のもとに行くときは、政子にばれないようにこっそりと出掛けていたようです。敵の武士は容赦なく倒し、冷徹な判断と優れた政治的手腕で鎌倉幕府を築きあげた頼朝も、実は奥さんが怖かったとは、なんだか人間らしい一面がうかがえるようです。

 

 

 

頼朝と政子の娘、大姫と三幡の不幸な人生

純愛を貫いて死んだ大姫(女性)

 

あまり有名な話ではありませんが、頼朝と政子のあいだにはふたりの娘がいました。長女は大姫、次女は三幡といいます。大姫の名前は一幡であったという説もありますが、定かではありません。

 

大姫が幼いころ、木曽義仲の長男である義高との婚姻が結ばれました。政略結婚ではありましたが、大姫は義高のことを慕っていたのです。

 

しかし、父である頼朝と義仲の関係が悪化し、義仲が敗死した後、息子の義高も殺されてしまいました。このことを知り、衝撃を受けた大姫は体調を崩し、その後はどのような結婚話も受け入れませんでした。義高への想いが忘れられない大姫は、誰と結婚することもなく、19歳という若さで亡くなってしまったのでした。

 

また、次女の三幡は、頼朝の入内工作によって女御となり、正式な入内を待つばかりでしたが、その間に病気で亡くなってしまいました。このとき、三幡はわずか13歳だったのです。

 

 

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