戦国時代は性格の悪い人がいっぱいいました。例えば織田信長は比叡山の僧侶をすべて殺害し、残虐な性格を示します。また徳川家康は豊臣家を滅亡させるため、どうでもいいような事に因縁をつけて戦を起こしてます。
そして豊臣秀吉は豊臣秀次を後継者としながら、豊臣秀頼が生まれると彼を後継者とするため、秀次に罪を見つけて殺害。戦国時代は上記三人の他にも多くの大名や戦国武将などあくどい性格をした人物がたくさんいました。さて今回紹介する明智光秀も性格の悪い人物だったのでしょうか。
みなさんの明智光秀のイメージは??
明智光秀といえばみなさんはどのようなイメージを持ちますか。ウィキペディアに掲載されている光秀の肖像画では、明智光秀の肌が色白で、繊細そうな雰囲気の持ち主で、穏やかな目元をしている戦国武将だと想像しているのではないでしょうか。ここで紹介した明智光秀のイメージとは対照的な明智光秀像がありました。
慈眼寺に秘蔵された明智光秀の木像
慈眼寺と言う京都のお寺には明智光秀の木像が残っています。この木像の明智光秀は体格がよく、四角い顔でちょっと肥満体型です。そしてこの木像の明智光秀は来た人を睨みつけるような鋭い目つきをしています。皆さんがウィキペディア等で見る明智光秀の肖像画とは全然違う明智光秀ではないのでしょうか。
明智光秀の性格は??
上記で明智光秀のイメージを紹介しましたが、彼の性格をどのように想像していますか。明智光秀の性格は知識が豊富で教養のある人でしょうか。それとも織田信長に叩かれたり、いじめられたりしながらも我慢して耐え続けている忍耐の人でしょうか。多分みなさんは明智光秀の性格をこのようなイメージを持っていると思います。しかし上記の明智光秀のイメージは史実とはまったく違うのです。では史実の明智光秀の性格とはどのような性格なのでしょうか。
最悪な性格・明智光秀
史実の明智光秀はどういった性格の持ち主の人物なのでしょうか。宣教師ルイス・フロイスは実際に明智光秀に接しこのような感想を日記に記しています。ルイスフロイスによれば「明智光秀は裏切りや密会を好み、刑罰を科す場合刑罰で、独裁的な考え方の持ち主である。
また自分を偽装することを得意としている。戦いにおいては謀略を好んで行い、計略と策謀においては達人と言えるレベルの人物であった(一部改変)」と光秀を評価。
もしこのルイス・フロイスの日記が本当であれば、今までみなさまが持っていた明智光秀のイメージとはまったく違った人物になるのではないのでしょうか。そして明智光秀はウィキペディアに乗っている肖像画のような穏やかな雰囲気を持った人物ではなく、慈眼寺の木像のような人相をもっていたのではないでしょうか。
戦国史ライター黒田レンの独り言
明智光秀がどれだけ最悪な性格をしていたのでしょうか。明智光秀の最悪な性格がわかるエピソードが残っているので紹介しましょう。
それは比叡山延暦寺の焼き討ち作戦です。明智光秀は比叡山延暦寺に篭城している僧侶すべてを皆殺しにする作戦を織田信長に進言していたのです。
その証左として明智光秀は比叡山延暦寺に攻撃を仕掛ける前に家臣の和田氏へ「是が非でも僧侶たちを皆殺しにするべきだ」と激しい言葉を連ねた手紙を送っています。そして明智光秀が上記の手紙を送ってから数日後、比叡山延暦寺は織田軍の攻撃を受けて燃え尽きてしまいます。比叡山延暦寺を攻撃する作戦は織田信長が行ったとされていましたが、この作戦を強く織田信長に進言したのは明智光秀だったのです。上記のエピソードから明智光秀がいかに最悪な性格を持った人物だったことがお分かりいただけたのではないでしょうか。
・参考 明智光秀 残虐と謀略 一級史料で読み解く (祥伝社新書)
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