今回は新選組の斉藤一について取り上げます。斉藤一は新選組の前身である壬生浪士組の頃から隊士として参加していますが、改名を繰り返したことで有名で、不明な部分が多い人物です。この記事では、斉藤一について新選組に加わった当初から戊辰戦争後までの経歴を取り上げます。
斉藤一とは?
斉藤一は1844年に生まれました。1863年に芹沢鴨や近藤勇らが率いる壬生浪士組に加わりました。斎藤は藤堂平助らとともに副長助勤に任命されました。当時、斎藤と藤堂平助はともに最年少幹部だったといわれています。後に斎藤は三番隊組長となり、撃剣師範も務めました。
池田屋事件では、土方歳三の部隊に属していて、近藤勇が率いる部隊が池田屋に斬り込んだときの騒ぎを聞いて駆けつけました。池田屋事件後、江戸幕府と会津藩から報奨金を受け取りました。池田屋事件後、新選組を離脱して御陵衛士に加わります。新選組と袂を分かつためではなく、スパイとして伊東甲子太郎らが率いる御陵衛士に参加しました。油小路事件で御陵衛士の伊東甲子太郎らを暗殺すると、斎藤は新選組に復帰します。
大政奉還後、戊辰戦争の最初の戦いである鳥羽伏見の戦いでは旧幕府軍に加わりました。旧幕府軍が敗退すると、新選組は甲州で新政府軍に抵抗を続けました。近藤勇が新政府軍に降伏すると、斎藤が東北地方の会津藩の下で新選組を率います。新政府軍に抵抗を続けましたが、会津藩が降伏したことに伴い、斎藤も戦いをやめて降伏しました。
斎藤は謹慎生活を経て解かれた頃、会津藩の再興が認められました。斗南藩として再興することになりました。斗南藩は現在の青森県の下北半島辺りにあります。斎藤も斗波藩の藩士となります。
廃藩置県で藩が廃止されると、斉藤一は警視庁に採用されました。警視庁で警察官になった頃から藤田五郎と名前を変えたといわれています。九州で西南戦争が起こると、西南戦争に参加しました。斉藤はこの戦いが評価されて、政府から勲七等青色桐葉章と賞金を授与されました。警視庁を退職後、大学の守衛や会計庶務係を務めました。1915年病気のため死亡しました。
斉藤一の剣術の腕
新選組の中では剣術の名人として知られ、永倉新八と比較されることがあります。『永倉新八はどんな人?』では、永倉新八が剣術の名人であるのに対して、斉藤一は実戦で傷を負ったことがないことから斉藤一を実戦の名人として紹介しています。実戦だけでなく、間者としての実績も紹介しています。
斉藤一の肖像画
斉藤一について、明治以降生き残った新撰組の隊士の1人でした。これまで資料が少なく、顔については長男が描いた肖像画だけでした。斉藤一の写真が見つかり、当時ニュースで話題になりました。この写真は1897年に妻と息子2人が写った家族写真でした。写真が見つかったことにより、謎の多い斉藤一について何か不明な点が解明されることが期待されます。
るろうに剣心の斉藤一の人物像
るろうに剣心の斉藤一は実在と同じです。斎藤の武器は仕込み杖で、神谷道場での左之助の戦いで使用しました。幕末の頃から日本刀を愛用していますが、抜刀斎に覚醒した剣心によって折られます。史実によれば斉藤一の愛刀は鬼神丸国重とされていますが、るろうに剣心では実際の愛刀との関係は不明です。剣心に折られた愛刀の代わりに銘柄は不明の刀を調達して戦います。幕末以降、明治になっても悪・即・斬の銘が彫られた刀を携帯しているのが特徴として挙げられます。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は新撰組の隊士の斉藤一について取り上げました。今回の記事では斉藤一は警視庁に採用されると藤田五郎と名前を変えたことについて取り上げましたが、斉藤一の前に何度か名前を変えたといわれています。名前を変えた経緯については分かりませんが、今後の研究に注目したいと思います。
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