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[信長暗殺]長曾我部元親、本当に黒幕だったのか?

2024年1月29日


本能寺の変

 

 

敵対する勢力を次々と滅ぼし、着実に天下布武(てんかふぶ)を進めていた織田信長(おだのぶなが)は、日本全国を統一するまであと一歩というところで本能寺(ほんのうじ)の変が起こり、亡くなってしまいます。

 

 

本能寺の変で「是非に及ばず」と切り替えの早い織田信長a

 

 

 

1582年6月2日、信長は49歳でした。歴史に「もし」は存在しないといいますが、もし本能寺の変がなくて、信長が生きていたら、いったいどのような統一国家を形成したのでしょうか?この記事では、日本史の流れを一夜にして大きく変えてしまった本能寺の変の首謀者は誰だったのかを探っていきます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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明智光秀(あけちみつひで)

明智光秀

 

「本能寺の変の首謀者が明智光秀(あけちみつひで)である」というのは、定説となっています。光秀は信長の家臣であったため、このような凶行に及んだのは、主君である信長に対してよっぽど恨みがあったからであるとされています。

 

 

同年小録(書物・書類)

 

 

しかし、これは主に江戸時代に書かれた軍記物に記されている内容であり、信憑性(しんぴょうせい)は定かではありません。「主君に恨みを持った家臣が謀反(むほん)を起こした」というのは、江戸時代の人々の心を掴みやすいテーマであったのでしょうか、軍記物の内容は尾ひれ背びれがついて膨れ上がり、人形浄瑠璃や歌舞伎の題材にまでなりました。

 

 

織田信長に恨みを持つ明智光秀

 

 

その内容は、「信長のせいで光秀の母親が亡くなった」「光秀の言動が気に障った信長は、光秀の頭を何度も欄干に打ちつけ、恥をかかせた」などというものです。また、「川角太閤記(かわすみたいこうき)」には「光秀は信長に対し遺恨があった」と記されていますが、これも江戸時代初期に書かれたものであり、秀吉に関する伝聞をまとめた書物であるため、真実であるかは定かではないのです。

 

 

 

長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)

長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)

 

さて、織田信長の暗殺でもっとも早く利益を受けた戦国大名がいます。それは、四国の長曾我部元親です。もともと信長と元親は友好的な関係でしたが、四国で強大な勢力を持つようになった元親は、全国統一を目前に控えた信長にとってとても邪魔な存在となったのです。

 

敵は本能寺にあり!と叫ぶ明智光秀

 

実際、本能寺の変があった6月2日は、信長による四国攻めの決行日だったのです。もし、本能寺の変が起こらなくて、信長が四国を攻めていれば、元親は滅ぼされていた可能性が大きいです。さらに、興味深いことに、信長のもとで対長曾我部外交を担当していたのが光秀だったのです。このことから考えると、元親が何らかの形で本能寺の変に関与していたと考えても不自然ではないでしょう。

 

長宗我部元親と密談する明智光秀

 

「元親があまり乗る気でなかった光秀を促して、決行させた」と考えている研究家もいます。

 

 

 

豊臣秀吉(とよとみひでよし)

豊臣秀吉(とよとみひでよし)

 

 

明智光秀の謀反の知らせをいち早く聞いた秀吉(ひでよし)は、中国地方から戻り、光秀を討ち取ります。この知らせを聞いてから光秀のところまでの移動は、中国大返しといわれているのですが、とても長い距離だったにも関わらず、すばやい移動でした。そのため、「秀吉は事前に光秀が謀反をするという情報を知っていたのではないか」とも考えられます。

 

 

 

戦国時代ライター星野まなかの独り言

戦国時代ライター星野まなかの独り言

 

 

信長ほどの革新的な政策を行った武将であれば、(した)っていた人も多かった反面、不利益を被る立場であった人も数多くいたことでしょう。本能寺の変を起こした光秀が秀吉に討たれ、その秀吉の死後は家康(いえやす)が天下を取り江戸幕府を開きました。

 

明智光秀(麒麟がくる)

 

 

このことは今では誰もが知っていますが、当時は当たり前ですが誰にも分からなかったのです。本能寺の変の後も、当時の人々は「いったい誰が黒幕だったのだろう」と憶測をしたことでしょう。しかし、その答えは何百年も前に亡くなった光秀や元親、秀吉の胸中にしかなく、今となっては誰にも確かなことは分からないのかもしれません。

 

信長は、本能寺の変で自刃するとき、「是非(ぜひ)に及ばず(どうしようもないことだ)」と言ったそうです。もしかしたら、信長は本当の黒幕が誰なのかを知っていたのかもしれません。

 

 

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星野まなか

歴史上の偉人から人生の教訓を学んでいます 好きな歴史人物:諸葛亮孔明、織田信長 何か一言:文献を読むことが好きです。 「はじさん」に関わらせていただけることをとても嬉しく思います。

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