吉田松陰は、幼くして軍学師範となるほどの俊才であり、高杉晋作など幕末の志士に思想的に強い影響を与えた存在です。吉田松陰は、思想弾圧である安政の大獄で捕縛されますが、当初は死罪になるような罪状ではありませんでした。
しかし吉田松陰の信条が、彼自身を死罪に追い込んでいきます。今回は、幕末の志士に大きな思想的影響を与え、そして刑死した吉田松陰の最後の日の様子、その心境と彼が詠んだ辞世の句について調べました。吉田松陰は、両親へ、弟子へ、そして自身の気持ちを表した3つの辞世の句を残していたのです。
この記事の目次
自ら老中暗殺計画を自供し死罪になった松陰
吉田松陰が安政の大獄で死罪となったのは、自らの口で老中・間部の暗殺計画を正々堂々と言ってしまったからです。安政の大獄によって捕らえられた吉田松陰の罪は、過激な攘夷扇動家であった梅田雲浜と萩で会っていたというのが主な理由でした。幕府の評定所ではそのつもりで吉田松陰を取り調べました。それはすでに捕らえられていた梅田雲浜との関係についてでした。
しかし、牢内でも囚人相手に教育を始めるという吉田松陰は、取調べの最中も持論を展開し、自ら老中暗殺計画を語りだします。それは吉田松陰にとっては正義であり、なんら恥じることでも隠すこともでもなかったからです。ちなみに、梅田雲浜は萩の松下村塾を訪れたのは事実です。しかし、梅田雲浜は吉田松陰の教えを「青臭い書生論」と馬鹿にし、吉田松陰は、梅田雲浜を「奸物」であると評しました。
そんな、梅田雲浜の巻き添えで吉田松陰は捕縛されたわけです。梅田雲浜に会っていたということだけを認めたのであれば、死罪になるほどではありません。それなのに、吉田松陰は堂々と自ら老中暗殺計画を自白してしまったわけですら、死罪以外の運命は無くなってしまいました。
吉田松陰辞世の句1 両親に宛てた和歌
まずは吉田松陰の両親に向けた辞世の句
「親思う 心にまさる 親心 今日のおとずれ 何ときくらん」についてです。
自分が正しいと思ったら行動するという信条の吉田松陰でしたが、自分が死ぬことによって、両親がどんなに悲しむかということを、謡った句です。吉田松陰への両親への思いがこめられています。この句は死の直前ではなく「永訣の書」と呼ばれる家族宛に書かれた手紙の中に書かれたものです。ですので、厳密に言えば辞世の句ではないかもしれません。しかし、死を覚悟して詠んだということではその意味において十分に辞世の句であるといっていいものでしょう。
極悪な環境であった伝馬町の牢屋の中で、吉田松陰は死を覚悟してこの句の書かれた手紙を両親、家族に伝えました。吉田松陰は自身がこのような境遇となったことで、家族との永遠を別れを決意します。そして、両親や、兄、叔父に対し長生きをして欲しいと願いました。吉田松陰は、自分の死が、両親に大きな悲しみを与えることを分かっており、そして申し訳ないという思いを感じていたのです。
吉田松陰辞世の句2 弟子達に宛てた和歌
そして、吉田松陰が残した2番目の句は弟子たちに宛てた「身はたとえ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」というものです。
「留魂録」と呼ばれる吉田松陰の遺書とも言える書の中に出てくる句です。これは、自分は武蔵の地(江戸)で死ぬが、自分の大和魂は行き続けるという意味の句です。彼の肉体は死を迎えても、その思い、思想、意思は、弟子たちが継ぎ、そして行動を起こすということを信じている辞世の句です。
この句の通り、吉田松陰の教えを受けた多くの志士は、幕末の中で明治維新に向け動きます。そして、明治維新を成し遂げる原動力となっていきます。明治政府が目指した不平等条約の解消、欧米と対等な日本を作るというのは、吉田松陰の教えの根幹であった攘夷を政治によって実現したものであるともいえるのではないでしょうか。
吉田松陰辞世の句3 自分の気持ちを詠んだ漢詩
吉田松陰は幕府が取調べを行っている評定所で、死罪の決定が下ったときに「吾、今、国のために死す。死して君親に背かず、悠々たり天地の事。鑑照は明神にあり」と叫んだと伝わっています。これが吉田松陰の三番目の辞世の句と呼ばれ、自身の気持ちを詠んだものといわれます。
漢詩であったその句の意味は、死罪という罪を受けたことに対し、何も恥ずべきことなどなく、国のために死ぬのであり、君主や親には背いておらず、その決定を天地自然のことのように受け入れる。自分の行ってきたことは神に判定してもらうものであるというものでした。
幕府という人の裁きを超えて、自分の正しさを堂々と訴え、そして、それを受け入れ、その評価は神が行うべきものであり、幕府ごこときが判断できるものではないという矜持をみせたのではないでしょうか。この句は、伝馬町の囚人が叫び声を聞き、塾生に伝えたものといわれます。吉田松陰は、伝馬町の囚人すらも教育しようとし、そしてその人望を認められるような人物でした。だからこそ、囚人は吉田松陰の言葉を書き残し、彼の弟子へと伝えたのでしょう。
吉田松陰最期の日はどんなだったのか?
吉田松陰は処刑の日、最期の日を迎えます。彼は全てを受け入れていたのでしょう。その様子を見た長州藩士の話では吉田松陰は近寄りがたい空気を身にまとい、鋭い視線を周囲に送っていたということです。そして、刑死の直前に「身はたとえ 武蔵の野辺にくちぬとも 留めおかまし 大和魂」という句を口にし、そして3番目の漢詩をここでも詠んだのです。死を受け入れ、何も恥ずべきことはしていない、己の人生の評価は神が行うものだということです。
この言葉を口にした吉田松陰を、幕府の役人たちですら、崇高な存在であるかのように見ていたということです。彼は最期のときまで堂々とした態度で死を受け入れ、自分の行動を正しさを信じていました。鼻をかみたいといって、紙を受け取るくらい平静だったようです。実際に吉田松陰の斬首を行った山田浅右衛門は、最期まで吉田松陰は堂々としており、その態度のすばらしさに幕府の役人ですら感動していたと語っています。
松陰の遺体を受け取った弟子達の行動
吉田松陰が処刑されたあと、彼の弟子であった飯田正伯と尾寺新之丞が、遺体の受け取りのために幕府の役人たちと粘り強く交渉します。当時の交渉には当然であった賄賂も使い、幕府の役人を動かしました。そして、回向院に吉田松陰の遺体を運び、そこで弟子の飯田たちが受け取るというものでした。約束どおり、吉田松陰の遺体は、弟子たちに引き渡されます。
しかし、その有様は酷いもので、裸で樽に放り込んであるというものでした。弟子たちは吉田松陰の酷い扱いを受けた亡骸を清め、自分たちの服を着せ、そして用意していた甕に移し入れ、回向院に吉田松陰の墓石を建てたのです。そもそも回向院とは、刑死した罪人を供養する寺です。師である吉田松陰は罪人であるのか? という思いは弟子たちの中にありました。
そして、吉田松陰の刑死から4年後に高杉晋作、伊藤博文などが、吉田松陰の墓所を回向院から世田谷区若林に移します。その墓所は今でも存在します。また、この墓所の近くには神社が建立されました。現在「松陰神社」はこの墓所の近くと故郷の萩の二箇所にあります。
幕末ライター夜食の独り言
吉田松陰は多くの志士に思想的な影響を与え、松下村塾の門下生には明治維新の原動力となった人材が数多くいます。そして、明治政府の中枢として近代日本を作り上げていく存在となる者もいました。奇兵隊を生み出した高杉晋作、初代総理大臣の伊藤博文や、日本陸軍の父といわれる山県有朋も松陰の弟子たちです。
本来であれば、斬首されることはないはずが、自ら正しいと思っていることは正直に口にする。正しいのだから、隠す必要もない。そしてその正しさは神が評価するだろうという思い。吉田松陰は、近代日本を生み出すための、殉教者のような存在だったのかもしれません。
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