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震災・戦争に耐えた井伊直弼像の[壮絶ヒストリー]

2024年7月22日


 

西郷隆盛像

 

冬も終わりすっかりと暖かくなってきた今日この頃。桜の季節や大型連休であるGWが近づいてきています。さてこの大型連休に皆様はどこに行きますか。レンは大河ドラマ「西郷(せご)どん」の関連して、ある場所に行きたいと考えています。

 

その場所は掃部山公園(かもんやまこうえん)です。この公園には幕末の大弾圧・安政の大獄(あんせいのたいごく)を行ったことですっかり悪役になってしまった井伊直弼(いいなおすけ)の銅像があり、名所になっているそうです。今回はこの掃部山公園に設置されている井伊直弼の銅像についてご紹介していきたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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【横浜開港の偉人】掃部山公園に銅像のある井伊直弼

 

掃部山公園は桜の名所として知られ多くの観光客を誘致しているそうです。さてこの掃部山公園には井伊直弼の銅像が設置されていますが、いつ頃銅像が設置されたのでしょうか。井伊直弼の銅像は明治42年に設置。明治42年は横浜が開港されて50周年の記念日でした。

 

この横浜開港50周年の日に井伊直弼の銅像はお披露目されるのですが、明治維新の立役者・山県有朋(やまがたありとも)松方正義(まつかたまさよし)井上馨(いのうえかおる)元勲(げんくん)達は、井伊直弼の銅像お披露目式を欠席したのです。どうして明治維新の元勲達は欠席したのでしょうか。明治維新の元勲達がお披露目式に欠席したのは井伊直弼の銅像建立の趣旨が気に入らなかったからです。

 

井伊直弼の銅像が建てられている掃部山公園は元彦根藩士が、明治政府から掃部山公園の敷地を買取り井伊家の土地としてこの地を所有。井伊家はこの掃部山公園に井伊直弼の銅像を建立しようと考えますが、計画が遅れてしまいます。

 

そこで井伊家の人々は横浜開港の立役者・井伊直弼の銅像建立を横浜開港50周年に合わせようと考え、工期を計画し発注。こうして井伊直弼の銅像は横浜開港50周年にあわせて完成し、銅像建立の趣旨を井伊直弼が横浜を開港させた恩人との理由にします。明治維新の元勲達は井伊直弼銅像建立の趣旨が気に入らず、井伊直弼の銅像お披露目式に参加することを拒否し、欠席したのが原因だったのです。

 

 

大震災でも倒壊せず焼け出された人々を励ました井伊直弼像

 

井伊直弼の銅像は明治維新の元勲達に嫌われますが、お披露目式に参加した人数はかなりの人になり、横浜の新たな名所として賑わったそうです。大正12年、関東に大きな地震が発生。この地震により多くの家屋や建物が倒壊します。関東周辺は多くの被害者が出て首都機能は麻痺し、大混乱に陥ったそうです。井伊直弼の銅像が建立している掃部山公園も大きな被害を被り、八重桜が倒壊し燃えてしまいます。

 

しかし井伊直弼の銅像はちょっと傾いただけで、倒壊することなく、しっかりと建っていました。井伊直弼の銅像が倒れなかった事で、掃部山公園に避難してきた被災者はこの銅像が地震でも倒れなかった事で勇気をもらい、心の支えになったことでしょう。

 

 

第二次世界大戦で銅像は供出されるが開港100周年で蘇る

井伊直弼

 

関東大震災でも倒れなかった井伊直弼像。しかし第二次世界大戦が勃発すると日本政府が出した、金属回収命令によって取り払われてしまいます。震災にも耐えた井伊直弼像はこうして無くなってしまいます。だが再び井伊直弼は掃部山に登場することに。どうして井伊直弼象は再び掃部山に登場することになったのでしょうか。井伊直弼像は第二次世界大戦により取り払われてしまいますが、戦後横浜開港100周年に向けて横浜市や神奈川県、商工会の人々らが再度井伊直弼像を掃部山公園に復活させようと計画を立てます。この井伊直弼像復活計画は市民達の協力を得ることに成功。そして横浜開港100周年を迎えた昭和29年に再び掃部山公園に井伊直弼像が登場することになるのです。

 

 

彦根市金亀児童公園の井伊直弼像

 

井伊直弼の銅像は掃部山公園以外の場所にも建立されています。井伊直弼の銅像があるのは彼の出身地・彦根です。彦根の井伊直弼像は井伊直弼没後50周年を記念して建立。彦根の井伊直弼像は尾末公園にありましたが、この地から移動し、公会堂前(現在の金亀児童公園(こんきじどうこうえん)付近)に移築されます。

 

掃部山の井伊直弼像と同じく第二次世界大戦中の日本政府の命令により井伊直弼像は壊されてしまいますが、昭和24年に護国神社境内に再度井伊直弼像が建立され復活します。その後現在の金亀児童公園に井伊直弼像が建立され、現在でも多くの観光客から人気を博しているそうです。

 

 

掃部山公園の井伊直弼像へのアクセス

西郷隆盛とパソコン

 

二つの井伊直弼像をご紹介しましたが、ここでは掃部山公園までのアクセス方法をご紹介しましょう。掃部山公園は神奈川県横浜市西区紅葉ケ丘57にあり、桜木町駅から徒歩約10分程で到着できる場所にあります。桜木町駅は京浜東北線など多くの列車が止まる駅ですので、アクセスしやすい名所と言えるでしょう。是非大型連休を使って訪れてみてはいかがでしょうか。

 

 

幕末ライター黒田レンの独り言

黒田レン

 

今回は井伊直弼の銅像についてご紹介しました。幕末の井伊直弼は悪役として有名でした。しかし井伊直弼の銅像は関東大震災で多くの人々に勇気を与えたヒーローとも言えるのではないのでしょうか。だからこそ一度は無くなった銅像が復活を果たして、掃部山公園に登場することになったのだと思います。

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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