幕末の英傑・橋本左内は神童・天才と呼ばれながらも、安政の大獄で刑死しました。実際に政治の中で残した実績はさほど大きなものではありません。しかし、橋本左内を非常に高くしていた人物がいます。NHK大河ドラマ「西郷どん」の主人公西郷隆盛です。
橋本左内は、福井藩主・松平春嶽の命により、「将軍継嗣問題」に関わっていきます。その中で、橋本左内は西郷隆盛の同士とも言うべき存在となっていきます。今回は、橋本左内、西郷隆盛という幕末を代表する傑出した人物であるふたりの関係について、考察していきます。
この記事の目次
西郷隆盛と橋本左内の関係
西郷隆盛が残した最初の橋本左内対する言葉、印象は「弱弱しく、女々しい男」というような意味のものでした。橋本左内は、元々医師の家に生まれ、武よりも学問の人です。それゆえ、一時は剣の腕で身を立てようという思いを持っていた西郷隆盛にとっては、軟弱、文弱の輩に見えたのかもしれません。
しかし、橋本左内の胸に秘めた学問への思い、武士たる存在となるべく思いは、触れるものが傷つく程に尖った、ギラギラとしたものでした。15歳のとき書いた「啓発録」では、学問や侍としてのあり方、自分の目指す理想について書き綴り、今の武士に対し強烈な批判を加えています。
二人が取り組んだ将軍継嗣問題とは?
西郷隆盛と橋本左内が同じ目標を持って動いたのは「将軍継嗣問題」でした。二人は14代将軍として一橋慶喜を擁立しようとします。後に江戸幕府最後の15代将軍となった徳川慶喜です。島津藩、福井藩とも、藩政に大きく関っていきます。
幕末時代の日本は、外国からの脅威を大きく感じており、この問題を解決するには、優秀なリーダーと思われていた一橋慶喜を将軍として、雄藩連合でそれを支えていくという体制を構想していたのです。
このような、活動の中で、西郷隆盛は、自分と同年齢の人物の中では、もっとも優れた人物であると橋本左内を評価するようになっていきます。しかし、島津藩の西郷隆盛、福井藩の橋本左内の「将軍継嗣問題」の活動は失敗してしまうのです。
運動は井伊直弼の登場で頓挫
それは、井伊直弼の登場が原因でした。彼は、将軍は、徳川の血を優先すべきであり、将軍のリーダーとしての優秀さなど関係なく、それは家臣団で支えていくのが、幕府政治の本筋であると考えていたのです。
徳川直参の名門、井伊家出身の井伊直弼は、家督を継ぐものが次々死ぬという幸運もあり、大老にまで上り詰めた男でした。使命感は強く、消して無能な政治家ではありませんでしたが、彼の最大の目標は徳川家を守ること。
そして、幕政に口出して来る大名などの外部勢力の排除を行います。将軍も優秀性など関係ありません。結果として14代目の将軍は紀州藩主の徳川慶福となります。まだ年齢が10代の将軍です。そして、井伊直弼は、政敵であった「将軍継嗣問題」で一橋慶喜を擁立しようとした存在を一掃しようとするのです。それが安政の大獄でした。
橋本左内安政の大獄に散る
その結果、西郷隆盛は僧・ 月照と心中し、西郷隆盛だけ生き残り、彼は奄美大島に流され謹慎となります。一説では薩摩藩が西郷隆盛を守るために、行った措置であるといわれます。しかし、橋本左内は、捕縛されてしまいます。橋本左内は、合理性を持って反論を行いますが、それが武士らしい態度ではないということで、死罪となってしまうのです。西郷隆盛はその死を奄美大島で知ります。
「橋本迄死刑に逢い候儀案外、悲憤千万堪え難き時世に御座候」
西郷隆盛は橋本左内の刑死を死ってこのように書き残しています。悲しみと怒りで耐え難いと書いています。そして、西郷隆盛は西南戦争で自刃するまで、橋本左内からの手紙を持っていたといいます。それほどまでに、西郷隆盛は橋本左内を評価し、そしてその死を悲しんでいたのです。
東京荒川区の墓
橋本左内には二つの墓があります。そのひとつが、東京都荒川区の墓です。橋本左内は安政の大獄で刑死下の後、多くの刑死されたものとまとめて葬られていたのです。ほとんど、無縁仏のような扱いです。1862年に、安政の大獄で処分を受けた人たちに恩赦が実施されました。以前から、橋本左内の墓を作ることを望んでいた、橋本左内の知人たちは、この機会に無縁仏や刑死した人を埋葬する回向院ら、遺骸、棺、墓石を故郷の福井へ移動させます。
橋本左内の遺骸は、橋本家の菩提寺である善慶寺へ移されたのです。しかし、1877年に新しい墓石が建てられます。そして、古い墓石が、東京荒川区の回向院に戻ってくることになったのです。橋本左内の供養を行う墓は回向院にもできました。このため、橋本左内の墓はふたつあり、そのうちのひとつの墓が、東京荒川区の回向院にあるのです。
福井市内の墓
橋本左内のふたつの墓のうちのひとつが福井市にある墓です。これは、東京都荒川区の回向院に、刑死したものたちととめて供養されていた橋本左内の遺骸、棺、墓石を福井市内に持ち帰り、新たに作った墓となります。橋本家の善慶寺に橋本左内の新しい墓が建てられ供養されることになります。この墓は今は「左内公園」の中にあります。
橋本左内の両親の両親の墓もこの公園にあります。福井市内のお墓では、毎年10月に墓前祭が橋本左内を供養を続ける有志の方の手により続いているとのことです。
橋本左内の著書「啓発録」について
橋本左内は15歳のときに己自信のふがいなさゆえに「啓発録」という非常に過激ともいえる学問に対する目標、理想の武士となるための行動の指針を打ち立てます。「啓発録」は今でも福井県内では読本が作られ、小中学校の教育に取り込まれています。啓発録は大きくわけると5つの誓いのような形となっています。
・ 稚心を去る
・ 気を振るう
・ 志を立つ
・ 学に勉む
・ 交友を択ぶ
この5つつです。福井市内の公園の石碑にはこの言葉が刻まれています。まず、子どもの依存心を捨て、子どもがやる遊びなどはやらぬということ。人には負けないという気概をもち、努力すること。昔の偉人のように志を持って生きていくこと。優れた人物の行動を習い、実行すること。それだけなく親孝行して文武両道を行うこと。友人をしっかり選ぶこと。そして友人が間違った道にいきそうであれば、それを正しい道に直してやること。
現代的に意訳し要約するならば、このようなことがかかれたものです。中には現代の武士に対する手厳しい批判もあります。24歳のときに、橋本左内は「啓発録」を偶然見つけ、10年後の自分が15歳のときに思い描いていた人物に恥じない存在なれるかということを書き残しています。しかし、26歳の短い生涯を終えた橋本左内にはその10年後はやってきませんでした。
三国志ライター夜食の独り言
西郷隆盛も橋本左内も、藩の方針の中で「将軍継嗣問題」にかかわり奔走していました。立場もよく似ており、歳も近く、お互いに惹かれるものがあったのではないでしょうか。西郷隆盛は「先輩としては藤田東湖に服し、同輩としては橋本左内を推す。
この二人の才学器識は、吾輩の及ぶところでは無い」という言葉を書き残しています。ふたりとも強烈な「尊王攘夷思想」を持った存在です。しかもその「攘夷」は、単に鎖国を続け、外国を追い払うというのではなく、逆に日本が世界に出て行くべきであるという、ある種「帝国主義的」な思想を含んだものでした。後に西郷隆盛が「征韓論」を唱えたのは、橋本左内の思想の影響もあったのかもしれません。今の価値観では、他国を武力で服従させるというのは、決して褒められた話ではないでしょう。
しかし、幕末という時代の世界はまさに力で他国を支配することはグローバルスタンダードな時代だったのです。その時代に生きた、西郷隆盛、橋本左内の結論がより強固なものになっていくのはその時代では正しいことだったのでしょう。そして、実際に近代日本はそのような道をたどっていくのです。
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