維新三傑の大久保利通(おおくぼとしみち)。その生涯は一体どのような物だったのでしょうか。そして暗殺によって斃れるまで、幕末時代、明治維新と近代日本を創る上でどのような業績を残していったのでしょう。大久保利通の人生とその業績を紹介していきます。
大久保利通の年表
大久保利通は1830年に薩摩藩の下級藩士の長男として生まれました。非常に貧乏な家であったとい話は現代にも伝わっています。15歳で元服します。今でいえば成人となるということですね。17歳から藩の記録を残す書記役として仕事を始めます。彼は、幼い時から非常に頭のいい子どもでした。彼の人生の大きな転機は、1850年に起きた薩摩藩のお家騒動「お由羅騒動」で父が流刑となり、自分も蟄居の身となってしまったことです。大久保家は困窮を極めます。
1851年島津斉彬が薩摩藩主となることで、大久保利通は蟄居を解かれます。そして出世街道を走るようになります。1861年には薩摩藩の中核の人材となります。この時彼は32歳です。薩摩藩を動かす中心人物として公武合体政策を進めていきます。大久保利通は、京都を中心とし活動しました。
1862年、京都で活動中に、後に討幕の仲間となる岩倉具視とに出会います。そのときに、のちに討幕の仲間となる岩倉具視と1862年に出会います。そして、薩摩藩にとって大きな事件がおきます。1863年7月に薩英戦争が起きます。これにより武力による攘夷は不可能であると大久保利通は理解したでしょう。1865年に大久保利通は討幕を決心します。
15代将軍となった徳川慶喜との対立が、彼にそれを決心させたと言われます。江戸幕府を打倒し日本を変える。薩英戦争で西洋の脅威を感じた大久保利通と幕府存続を最優先する徳川慶喜は相容れなかったのです。大久保利通は、幕府の長州征伐にも反対し、薩長同盟の原型となる提案を坂本龍馬に託し長州に派遣させています。1867年の大政奉還から王政復古まで、江戸幕府打倒のため裏表様々な工作を行っていきます。彼の冷酷、策略家という評価はこのころから出来上がります。
明治維新後は、日本近代化のため、版籍奉還、廃藩置県、地租改正という古い日本を壊し新しい日本を創り上げるために尽力します。1871年には岩倉使節団の一員として、欧米各国に向かいます。目的は不平等条約の解消でしたが、そのときの日本には欧米諸国にそれを認めさせる力もなく、そして制度も整ってなかったのです。1873年に大久保利通は初代内務卿となり、明治政府の最高権力者となります。大久保利通は欧米諸国視察からの帰国後、西郷隆盛と征韓論を巡って対立します。そして西郷は下野し薩摩に向かいます。
大久保利通は朝鮮との武力衝突は欧米諸国の介入を招き危険だと判断しました。彼には進んだ欧米諸国を見てきた経験があり、西郷隆盛にはそれはありませんでした。1877年、西南戦争が起きます。盟友であった西郷隆盛は、反乱軍の首魁に持ち上げられていました。そして翌年1878年5月に紀尾井坂の変といわれる事件が起きます。不平士族に襲撃され、大久保利通は暗殺によって斃れます。彼はその地で49年の生涯を終えたのです。
大久保利通は幕末時代にどんな業績を残したの?
幕末時代の大久保利通は当初「公武合体政策」を推し進める立場で動いていました。すでに薩摩藩の中心となり藩政を動かしていたのです。しかし、日本を動かす主導権を薩摩藩中心とする雄藩連合としようとした大久保利通と、徳川幕府の優位を維持しようとした徳川慶喜と決定的に対立します。
この対立により、大久保利通は討幕へと突き進みます。大久保利通は長州征伐に反対し、長州との同盟を画策します。これに協力して動いたのが坂本龍馬です。幕府打倒のためには朝廷からの「討幕の詔」が必要でした。日本という国は形の上では天皇が命じた物が政治をしているという形になっています。
つまり天皇、朝廷が「敵」と認めた場合、日本という国を治める正統性がなくなるのです。この「討幕の詔」により江戸幕府は日本を治める正統性を失います。追い詰められた江戸幕府、将軍・徳川慶喜は「大政奉還」を行います。江戸幕府は政権を朝廷に返上して有力な政治勢力として生き残りをかけたのです。しかし、大久保利通、岩倉具視を中心とする討幕勢力は「王政復古」の新体制樹立を宣言。ここで江戸幕府は滅び、明治という時代が幕を開けることになるのです。
大久保利通は明治維新にどんな業績を残したの?
明治維新後の大久保利通は近代日本を創るための中心となり動きます。1873年に明治政府の事実上の最高権力者である内務卿になります。そして、国家で統一された教育を行う「学制」の制定。国として統一されていなかった税制も「地租改正」で解決します。
また日本を守るために必要な武力を作るため「徴兵制」実施するのです。その時の世界は弱肉強食であり、アジア諸国の多くが植民地化されていました。江戸時代の幕藩体制は日本の中に別の独立国が沢山あり、それぞれ勝手に政治を行っていた面がありました。特に国として統一されていない「教育」「税制」「国防」を中央集権政府の元、統一する改革を行ったのです。そして「富国強兵」という目標を立て、近代日本の基礎を創り上げていったのです。全ては不平等条約を改正し、日本を欧米諸国と同等の国であると認めさせるための政策です。
大久保利通は私財を投じるほど借金まみれだった
大久保利通は、日本の産業を立ち上げるため様々な事業に私財を投じました。大久保利通を知る当時の人たちは、彼ほど「私利私欲の無い人間はいない」「清廉潔白」と評しています。幕末時代、討幕のために手段を選ばず、また明治維新後も、障害となる敵対勢力を弾圧するなど、多くの敵を作りました。
しかし、彼は権力を握りましたが、私腹を肥やすことはしなかったのです。死後、大久保利通の膨大な借金が判明します。国の借金を私財で埋めていたため、資産は140円(当時)、負債、つまり借金が8,000円もあったのです。しかし、大久保利通にお金を貸した人たちも、彼がなぜお金を借りていたのか知っていました。近代日本を創り上げるという目的を知っていた人たちは借金の返済を遺族に求めなかったのです。そして、明治政府は残された遺族に対し、大久保利通が鹿児島県に寄付した8,000円を回収し、さらに8000円を足して遺族に渡しました。それだけ、彼は清廉潔白で私欲が無く、ただ日本が欧米諸国と対等な国家なることを目指していたのです。
幕末ライター夜食の独り言
大久保利通は幕末時代の人物の中ではあまり人気のある方ではありません。西郷隆盛の非業の死により、判官びいきの日本人的な心情が合理的で、怜悧すぎる大久保利通に感情移入できないという面もあるでしょう。しかし、幕藩体制が残ったままでは日本の近代化は非常に困難だったでしょう。
もし、徳川幕府が徳川藩となり存続した形の政体であったらどうだったのでしょうか?歴史に「もしも」はありませんが、日本が外国から驚異的と評価されるような近代化ができたかどうかは疑わしいと思っています。それは統一された中央集権的な国家を作るのが難しいからです。明治維新とはバラバラだった日本を統一された国家に作り直す改革であったのです。そう言った点型、大久保利通の業績を再評価すべきだと思います。
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