幕末の英傑のひとり橋本左内は、君主の福井藩主・松平春嶽の側近として幕政に深く関わります。そして、将軍後継問題で大老となった井伊直弼と対立し、安政の大獄で刑死しました。その辞世の句は「二十六年、夢の如く過ぐ。平昔を顧思すれば感ますます多し。天祥の大節、嘗て心折す。土室なほ吟ず、正気の歌。」というものです。今回は、この辞世の句から読み取れる天才・橋本左内の心情について考察していきます。
橋本左内の最期について
橋本左内の最後についいては伝承による物しかなく、史料的に確かなものはないようです。ただ、その最期はかなりとり乱したものであったらしいのです。このことについて、フィクションである歴史小説、山本周五郎の「城中の霜」では泣き叫んで死んでいったことが、逆に武士としての無念を表しているものであると描いています。この小説は昭和15年に書かれた作品です。日本全体が戦時色に染まり、日本人全体が潔く生きるという空気の中発表された物の様です。また、橋本左内は、取り調べのときに自分の行動は藩命によるものだと主張したとのことです。
これが、井伊直弼の反発を招き、「遠島」から「死罪」になったとも言われます。要するに、藩主に責任を負わせようとしており、武士らしからぬ態度であるということです。この橋本左内の言葉は正直ではあったものの、当時の価値観とは受け入れられなかったのでしょう。
辞世の句とは
辞世の句とは人が死の間際に読んだ句のことをいいます。辞世の句を読むようになったのは中世以降で、戦国時代以降に有名な辞世の句がならんでいるのではないでしょうか。歴史上の有名人物では、豊臣秀吉「浪速のことも夢のまた夢」などのフレーズは目にしたこともある人も多いかと思います。武士や身分の高い人にとっては、死の間際に辞世の句を読むことが中世以降習慣化していきます。ですので、歴史上の有名人物の多くが辞世の句を残しています。橋本左内もその習慣に従い辞世の句を残しています。
橋本左内の辞世の句
橋本左内の辞世の句は「二十六年、夢の如く過ぐ。平昔を顧思すれば感ますます多し。天祥の大節、嘗て心折す。土室なほ吟ず、正気の歌。」と言うものです。
26歳と言う若さで、本来であれば死ぬような罪を犯していない中で、死を迎えなければならなかった無念の気持ちがこもった辞世の句であるように見えます。橋本左内の辞世の句を意訳すれば「26年の生涯が夢の様に過ぎて言った。昔のことを思い出すとその思いはますます大きくなっていく。かつての文天祥の思いに感心したものであるが、自分も彼と同じく土牢の中にあって正気の歌を詠うのだ」というところです。
この中で出てくる文天祥とは、中国の南宋の政治家で元との和平交渉の中でとらえられ、元に帰順するように何度も言われながらも、それを拒否して刑死した忠臣とされている人物です。彼の謳った歌が正気の歌とよばれているものです。橋本左内はその忠臣に自分をなぞらえ、辞世の句を詠みました。君主である松平春嶽に忠実に、彼の政治方針、将軍として慶喜擁立に動いたことが、死罪に値することなのかと言う無念も感じます。
橋本左内の死を惜しんだ西郷隆盛の言葉とは
安政の大獄では西郷隆盛自身がその災禍を避けるため奄美大島に「謹慎」と言う形で身をひそめていたのです。西郷隆盛が橋本左内の死を知ったのは奄美大島で隠遁中のことでした。橋本左内の死を知った西郷隆盛は「橋本迄死刑に逢い候儀案外、悲憤千万堪え難き時世に御座候」と大久保利通などに送った手紙に書いています。
橋本左内の刑死を悲しく怒りを感じる物であり堪えられないと書いています。西郷隆盛は「将軍継嗣問題」で橋本左内と共同歩調ととっており、その才能も高く評価していました。橋本左内の死は西郷隆盛に大きな衝撃を与えたことは間違いないでしょう。
三国志ライター夜食の独り言
橋本左内の辞世の句は己の正しさを死後まで信じていたのでしょう。将軍の擁立問題についてはそれぞれに言い分があり、後世の人間が評価するのは難しいですが、もし慶喜の将軍就任が早まった場合、幕府を政治勢力として残したままの明治維新というものがあったかもしれません。幕府の権威を取り戻そうと強権を振るった井伊直弼が逆に、幕府の命脈を縮めていったような感じもします。
橋本左内は26年間の短い人生で、具体的に何か実績を残したとは言い難いとは思いますが、西郷隆盛など、当時を生きた幕末の有名人に大きな思想的な影響を与えました。橋本左内の死後も彼の開国をするならば、むしろ日本が海外に進出すべきだという考えは、その後の日本の動きにかぶってきていきます。それが、批判的に取られる時代もありましたが、当時の世界の状況を考えれば、橋本佐内の考えは、グローバルスタンダードな考え方であったのかもしれません。
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