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三国志で大活躍![弩が日本で普及しなかった驚きの理由]

2024年10月28日


 

敵に接近しなくても攻撃できる遠距離武器の有用性は有史以前の原始時代から知られるところであり、狩猟の時代から現代の戦争に至るまで、形を替えつつ用いられています。最初は手で掴んで石を投げる投石から始まり、やがてスリングや弓といった、弦の力で弾(矢)を飛ばすものへと進化。そこから更に、機械式で強力な矢を打ち出す「弩(ど)」に発展、西洋でも同じような武器として、「クロスボウ」が使用されています。

 

 

ところが。日本ではなぜかこの「弩」、全然発達することなく終わっています。中国のみならず、世界的なスタンダードとも言える「弩」が、中国文化の影響を強く受けているハズの日本では殆ど用いられなかった。これって不思議だと思いませんか?

 

「弓」と「弩」の関係について紐解いていくと、現代ニッポン人にとって馴染み深い、あのデバイスとの奇妙な関係性が見えてきました。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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そもそも、「弩」ってどんな武器?

 

「弩」は「ど」、もしくは「おおゆみ」と読みます。慣用的には「いしゆみ」の読みを当てることが多いですが、これは、城壁の上から石を落として攻撃する「石弓」と呼ばれる兵器と混同されたことによる読み間違いとされています。「弩」は弓を横倒しにした形で台座に取り付け、矢を打ち出す武器です。手で扱う弓よりも強力なものを作ることが可能で、威力と命中精度で弓に優るとされています。

 

また、弓が使い手の個人的技量によって大きく性能が変化しますが、弩は機械式なので誰が扱っても威力が変化しないのも特徴です。単純な構造の弓と違い、大きさと重量がある弩は馬上で用いるには適さずそのため、主に歩兵がその運用に当たりました。また、弓に比べて構造が複雑で高価であること、メンテナンスに手間がかかるという欠点もあります。個人で所有・管理することが難しいため、弩は主に政府が管理・運用する兵器でもあったのです。

 

 

弩の発明者は諸葛孔明だったの?

 

中国における「弩」の歴史は古く、「蚩尤(しゆう)」という神話時代の神様や、最初の王とされる「黄帝(こうてい)」が発明したという伝承も残されているほどですが、実際のところは、いつ、誰が発明したのか、詳細な記録は残されていません。

 

孫武(そんぶ)の兵法書『孫子』には、弩の運用に関する記述があり、孫武が活動した春秋戦国時代にはすでに存在していたことが確認できます。時には諸葛孔明が弩の発明者であったと語られる場合もありますが、これは間違いです。

 

矢を自動装填できる「連弩(れんど)」の発明者が孔明であった、という説もありますが、紀元前4世紀のものとされる連弩が発掘された事例もあるので、この説も間違いです。孔明が行ったのは連弩の改良に過ぎませんでしたが、このことから弩を「諸葛弩(しょかつど)」と呼ぶようになったのです。

 

 

弥生時代には日本にも弩が伝来していた。しかし……。

 

島根県の弥生時代の遺跡から「弩」の銃身部分が出土した記録があります。このことから、弥生時代にはすでに弩が日本に伝来していたと考えられます。後に、国家による法制度である「律令制」が成立すると、その軍律において弩の運用法が定められました。平安時代には、当時国家機密であった弩の製造法を朝鮮半島の国、新羅に漏洩しようとして未然に阻止された事件があったことも記録に残っています。

 

平安時代までは政府が製造管理を行う兵器であった弩ですが、後の鎌倉時代以降、戦に用いられることがなくなってしまうのです。それには、日本特有の事情が大きく影響していました。

 

 

軍隊のありようの変化が弩衰退の原因となった?

鎌倉時代の侍(武士)

 

国家の定める法(律令)に従って制定された軍隊によって運用されていた弩ですが、鎌倉時代以降の時代、武士の誕生によって軍事行動が数十人単位の小集団中心で行われるようになると、重くて構造が複雑な弩は運用しづらいものとなり、変わって軽量で構造も単純な弓が主に使われるようになったのです。

 

そして、もうひとつの大きな要因として、鎌倉時代以降の合戦が騎馬兵中心となったこともあります。前述の通り、弩は騎乗で使うには不向きな兵器であったため必然的に騎馬兵は弓を選択することになったのです。

 

 

弓道とガラケーの意外な共通性?

 

弓は使用者の技量によって、性能に大きな差の出る武器です。そこで、日本の武士たちは弓を武芸として嗜み、その技量を磨くための「弓道」が発達していったのです。

 

中国やヨーロッパでは弩やクロスボウが用いられたことに対し日本では特有の条件の元、国際的なスタンダードである弩が発達せず、独自の技術(技能)による弓道が発達したわけです。これって、現代における「携帯電話」。いわゆる「ガラパゴスケータイ(ガラケー)」の話に、とても良く似ていると思いませんか?

 

島国である日本国内で、その特有の条件によって海外のスタンダードとは違う独自性の強い商品が発達することを、生物が独自進化を遂げたことで知られる「ガラパゴス諸島」になぞらえ「ガラパゴス現象」といいますが、まさかそんな昔に、しかも合戦に用いられた武器である「弓」がまさに「ガラパゴス現象」によって発達したというのは日本人の気質を考える上で、非常に興味深いと言えるでしょう。

 

 

三国志の弩が日本で流行らなかった理由のまとめ

 

後に戦国時代になると、ヨーロッパからクロスボウが伝来しますが、ほぼ同時期に伝来した火縄銃の方が広く用いられることになり、結局、クロスボウはあまり広まることはありませんでした。ガラパゴス現象というものをどう捉えるかはいろいろな考え方があると思いますが、日本人の気質が鎌倉時代の古くから大きくかわっていないと思うと、ちょっとおもしろいですよね。

 

 

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