孔子の弟子といえば『論語』にいくつかエピソードがあるだけで、その人物像や活躍ぶりについてはほとんど謎に包まれていることが多いです。しかし、孔門十哲に数えられる子貢については、その活躍ぶりや人となりをあらゆる書物から知ることができます。
『論語』や『春秋左氏伝』といった儒教の経典はもちろん、司馬遷が著した歴史書である『史記』、そして『墨子』や『荘子』、『韓非子』といった他の思想書にも子貢の姿が描かれているのです。どうやら歴史上に名を刻むにふさわしい大人物だったらしい子貢。今回は、そんな子貢についてご紹介したいと思います。
孔子を称える子貢の言葉はまさに錦心繍口
孔子が「言語は宰我・子貢」と称しているように、子貢は雄弁な人物であったようです。彼の雄弁さは孔子に限らず多くの人が褒めそやしており、人から「孔子よりも君の方が優れているよ」と言われることも多々ありました。そんなとき、子貢は決して天狗になることなく、得意の弁舌をもってして孔子の方が素晴らしいことを相手に諭しました。
「屋敷の塀にたとえれば、私の家の塀は肩くらいの高さですから、家の中が小奇麗であることが窺えるでしょう。しかし、先生の家の塀は優に背丈以上の高さがありますから、門を叩いて中に入らなければ、その宗廟の美しさや役人たちの元気な様子を見ることができません。その上敷地が広大すぎてその門を見つけることができる人が少ないようですから、子服景伯殿が私を先生より優れていると言われたのも仕方のないことです。」(『論語』子張篇)
見事な比喩表現で相手を言いくるめる子貢の言葉はまさに錦心繍口。そして、常に師を立てるその姿勢は弟子の鑑と言えるでしょう。最後にちょっぴり皮肉をきかせているあたり、孔子の教えだけではなくその弁舌もしっかり継承していることが窺えますよね。
魯を滅亡の危機から救い出した救世主
魯の哀公の時代、「臥薪嘗胆」で有名な呉王夫差が斉を討って魯に迫り、魯に対して百頭以上の牛や豚、羊などを使ったご馳走を用意して呉軍をもてなすように要求してきました。しかし、そんな要求を受け入れるわけにはいきません。さりとて「無理。」と一方的に突っぱねれば呉との関係が悪くなってしまいます。
そこで魯の大夫・季康子は孔子とその弟子・子貢を呉王のもとに派遣。孔子と子貢は周の礼を呉王に説き、呉王を納得させて要求を取り下げさせることに成功しました。しかし、一難去ったかと思えばまた一難。今度は斉が攻めてきて邑を3つも奪っていき、以後何年もドンパチ争うことになってしまいます。度重なる戦で疲弊しきった魯は、戦ではなく外交によって奪われた邑を取り返そうと考えます。
その外交官として選ばれたのが大夫・子服景伯と子貢でした。子貢は子服景伯をうまくフォローし、斉から奪われた邑を取り返すことに見事成功。子貢のフォローに感じ入った子服景伯は、それ以降「子貢は孔子よりすごい!」と周囲に熱く語ってまわったのでした。
財神にもなった子貢
外交官として目覚ましい活躍を見せた子貢ですが、彼には商才もあったようです。そんな彼は『史記』貨殖列伝にもその名を連ね、その記述によれば、魯国と曹国で物を売買することによって巨万の富を築き上げたのだとか。
隣の国で安く仕入れたものを自分の国でちょっと高く売り、逆に自国で安く仕入れたものを隣の国でちょっと高く売るというようなことを繰り返していたのでしょう。そんな大金持ちの彼は様々な国の諸侯とも交流があったようで、孔子が有名になれたのは子貢のおかげだなんていわれることもあるようです。清貧を良しとする孔子は子貢の商才について次のように述べています。
「顔回は理想に近い。学問の道を楽しんで富を求めるからよく貧窮する。一方、子貢は天命に身を任せることなく自ら金儲けをする。子貢が予想したことはよく当たるのだ。」(『論語』先進篇)
孔子は顔回の清貧を地で行く生き方を肯定しており、子貢が学問以外のことにも手を伸ばしていることについてちょっと不満げな様子です。しかし、彼が富を築くことができるのは、彼の先を見通す能力が優れているためであると認めています。孔子からはちょっぴり眉を顰められていた子貢ですが、彼は後に財神となり、商売に励む人々の信仰と対象となったのでした。
三国志ライターchopsticksの独り言
政治に商売に、多方面で活躍を見せた子貢ですが、その才能に奢ることなく、生涯孔子を師として仰ぎ続けました。彼は孔子の死後、他の弟子たちが3年喪に服したのに対し、なんと2倍の6年も喪に服したと言われています。師を凌ぐとさえ言われて謙遜していた彼の言葉が表面だけ飾り立てた薄っぺらなものではなかったことを裏付けるエピソードです。
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