四国では長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が10年をかけて四国統一を果たした頃、中央では羽柴秀吉の政権が着々と形を見せておりました。秀吉は自分の力を内外に示すために石山本願寺(いしやまほんがんじ)跡に日本最大級の城を建築することにします。その城の名を大阪城と言いとんでもなく巨大な城が少しづつ姿を現しておりました。
また秀吉は北陸の大名上杉家を服属させることに成功し、西の覇者として秀吉と早くから手を握っていた毛利家との外交交渉にもついに決着を付けることができ、秀吉に服属することになります。こうして西は毛利家・東は上杉家が秀吉に味方。
その結果、東は上杉を介して関東・奧羽地方にまで勢力を伸ばすことが出来ることになり、西は毛利家を介して九州地方にまで秀吉の勢力は進出することが可能となります。しかし毛利家・上杉家は秀吉とじかに交渉して服属することになったわけではなく、ある制度を担当していた交渉者達と交渉したことで不利な条件で服属することを避けることができます。
この毛利・上杉家との交渉を担当した役人のことを秀吉政権では取次といい、この武将達の努力のおかげと言っていいでしょう。この取次とはどういった権力を持った役職なのでしょうか。今回はこの取次についてご紹介していきたいと思います。
取次とは?
まず取次とはどういった役職なのでしょうか。取次は簡単に言うと秀吉と各国の大名の間に入って橋渡しを行う役職のことです。この取次が活躍する場面は各国の大名が秀吉と誼を通じたいと思ったときや秀吉と敵対していた大名が彼に降伏したいと思った時です。
秀吉は偉いため各国の大名と直接取引をするようなことはしません。そこで秀吉の窓口として取次が各国の大名の訴えや大名家の情報をかき集めて整理した後、秀吉に伝える役目を持っております。逆に秀吉が各国の大名に命令や政策等を伝えるときにも取次を介して、各国の大名達へと伝えれられることになるのです。
さらに取次は各国の大名達へ秀吉が制定した政策をしっかりと行えるようにアドバイスを行ったり政策を指導したりする役目を持っており非常に重要なポジションでした。取次はこうした役目をしっかりとこなすことのできる人物たちが任命されていくことになります。他にも取次には下記のような仕事内容がありました。
情報を伝えるのも献上品を届けるのも取次しだい
取次は秀吉と各国の大名間をつなぐ役割であることを上記で説明しました。これは命令や政策だけではなく、献上品等についても同様です。ある大名が秀吉へ馬を上げたいとしましょう。しかしこの大名は直接秀吉に馬を献上することはできません。まず取次へ「秀吉公に珍しい馬が手に入ったので上げたいのですが、いいですかね」と問い合わせをしなくてはなりません。
取次が秀吉にあげる献上品をしっかりと精査した後、この馬を上げようとしている大名へ「いいですよ」と言えば、秀吉へ馬が献上されることになります。しかし取次が「この馬は珍しい馬ですが、秀吉様が乗って落馬した場合、あなたにも迷惑がかかるので献上するのはダメです」と言われてしまえば、秀吉に馬が献上されないばかりか、この大名が秀吉へ馬を献上しようとしていた事実も伝えられることがありませんでした。そのため各国の大名は秀吉にご機嫌を取る前に、取次の武将のご機嫌も取らなくてはなりませんでした。
秀吉政権内で取次をしていた武将達
では秀吉の政権内で取次をしていた武将達をご紹介しましょう。まず偏屈者だが秀吉に対しての忠義心は一品の石田三成(いしだみつなり)です。彼が取次を行った大名家は数多く、北陸の大名である上杉家・関東の佐竹(さたけ)家・薩摩(さつま)の島津家など多くの大名の取次役として活躍。彼が秀吉の政権内で一番有名な取次役と言えるのではないのでしょうか。
他にも毛利家との取次役を行っていた黒田官兵衛(くろだかんべえ)や蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)。(正勝はその後四国方面の大名達の取次としても活躍)さらに細川藤孝(ほそかわふじたか)は九州方面の大名達へ取次を行ったり、前田利家(まえだとしいえ)は奧羽の南部家との取次等を行っており、様々な武将達が各国の大名家の取次として活躍していることがお分かりなると思います。
はじめての取次役の成果
取次役として最初に任命され大名と秀吉の橋渡し役として尽くし効果が現れたのは、毛利家との交渉を粘り強く行った官兵衛・正勝コンビの二人でした。彼らは秀吉が毛利家と和睦した時から毛利家の取次役として命じられ、毛利家と秀吉との間にあった大きな問題の解決に尽力することになります。
それは羽柴家と毛利家の国境制定と分割地の問題でした。毛利家は秀吉と和睦した際、毛利家が保有している国を分割することで和睦することになりますが、はっきりと決められたわけではありませんでした。そこで毛利家の外交を司っていた安国寺恵瓊(あんこくじえけい)と官兵衛・正勝コンビは、この問題を解決するべく奮闘。
その結果、毛利家は羽柴家の要求であった人質と国土を多く割譲することで合意。秀吉は毛利家が保有していた領土を多く分けてもらったため、ある国を征伐して国土を与える約束して講和合意にこぎつけることに成功します。こうして毛利家は官兵衛・正勝コンビの成果によって、国境問題・分割地問題を解決し秀吉に服属。秀吉は毛利家を服属させたことによって、九州地方にまで勢力を及ぼすことになり、四国征伐では毛利家が活躍することになります。
東のとある大名を味方につけた三成の働きとは
官兵衛・正勝コンビの尽力によって西の覇者・毛利家は秀吉に服属することになります。秀吉は東にも勢力を及ぼすために北陸の大名である上杉家を味方につけようと考え、石田三成を窓口にして上杉家へ働きかけます。その結果、上杉家当主であった上杉景勝(うえすぎかげかつ)は、秀吉からの指示を受けて勝家と秀吉が賤ヶ岳で決戦を行っていた頃、越中(えっちゅう)方面へ侵攻しております。
また景勝は進んで人質を連れて上洛を果たして、秀吉に服属することを誓います。景勝が秀吉に服属したきっかけを作ったのは取次役・石田三成です。彼は上杉家の執政として活躍していた直江兼続(なおえかねつぐ)と交渉を幾度も重ねて、上杉家が秀吉に服属するように説得。兼続は三成の説得に応じ、景勝を動かしたことによって上杉家は秀吉に服属するのです。こうして秀吉は上杉家を介して関東・奧羽地方にまで、勢力を伸ばすことが出来るようになります。
戦国史ライター黒田レンの独り言
これほど重要な取次の役目ですが、欠陥部分もありました。それは各国の大名との上下関係がはっきりとしていない点です。取次と大名との上下関係がハッキリしていないため、ある大名が激怒して取次役と絶交する逸話が残っております。
その大名とは独眼竜として有名な伊達政宗です。政宗は浅野長政(あさのながまさ)が秀吉政権内の取次役でありましたが、取次役であった長政が権力をかさに来て正宗に対して横柄な態度であったため激怒。そして政宗は長政に絶縁状を突きつけて絶交してしまうのです。政宗の態度は一歩間違えば、秀吉から激怒されかねない行動ですが、この政宗のエピソードは大名と取次役の上下関係をはっきりさせていない欠陥部分を表すエピソートを如実に現しているのではないでしょうか。
このように優れていた点も持ち合わせていた取次役の制度ですが、欠陥部分も有してました。また大名達から憎まれやすい役職であり、無私公平な人物で横柄な態度を取ることのない人物でないと務まらない欠点もありました。しかし秀吉政権の基盤確立には非常に重要なポジションと言える役職でしょう。このようにちょっと戦国時代も角度を変えてみることによって、秀吉が天下をどうやって統治していたのかを知ることが出来るのではないのでしょうか。
参考 ソフトバンク新書 秀吉家臣団の内幕 滝沢弘康著など
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