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光秀VS秀吉[天下分け目の山崎の戦い全貌を解説]

2024年12月20日


明智光秀の親友・吉田兼見

 

明智光秀は各地の旧織田家の諸将へ手紙を送って味方になってくれるように要請しますが、彼の味方になってくれる武将はほとんどいない状態でした。さらに光秀が一番頼りにしていた細川藤孝(ほそかわふじたか)・忠興(ただおき)親子にもフラれてしまう始末でした。

 

中国大返し ver1(豊臣秀吉)

 

秀吉は本能寺の変が起きた数日後には高槻(たかつき)の富田(とんだ)に到着。彼は撤退している間に織田家諸将へ味方になってくれるように手紙を送りつけます。光秀の時には味方になってくれなかった織田家の諸将達は秀吉に呼びかけには応じて、数多くの武将達が彼の元に馳せ参じてくることになります。

 

池田恒興

 

秀吉の呼びかけに応じた諸将の一例として丹羽長秀(にわながひで)、池田恒興(いけだつねおき)、堀秀政(ほりひでまさ)、蒲生氏郷(がもううじさと)などが秀吉の味方に加わってくることになります。こうして多く武将たちを味方につけることに成功した秀吉と信長を討つことに成功した光秀は山崎の地で決戦を行うことになります。

 

明国制圧の野望を抱く豊臣秀吉

 

この戦いに勝利したほうが天下を握ることのできる地位に、近づくことになる重要な一戦でした。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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山崎に布陣する

明智光秀(麒麟がくる)

 

明智光秀は秀吉軍がやってきたことを知ると守りぬくく攻めやすい京都の地で秀吉軍を迎撃することを避け、京都・大阪のちょうど中間地点で、付近に天王山(てんのうざん)と淀川(よどがわ)に挟まれ防衛拠点としては最適である山崎の地に向かうことにします。こうして光秀は京都の地を捨てて山崎に向かって出陣していくのです。光秀は山崎の地に到着すると戦場全体を見渡すことのできる恵解山古墳(いげのやまこふん)と呼ばれる古墳に本陣を据えていたそうです。

 

 

秀吉も山崎の地に到着し各地の拠点を占拠

丹羽長秀

 

秀吉は光秀が到着する前に山崎の地に到着すると戦が起きた場合、光秀軍よりも優位な地を手に入れるてため、諸将に指示を与えていきます。まず秀吉本隊は織田信孝(おだのぶたか)、丹羽長秀(にわながひで)らの軍勢と一緒に山崎山の麓付近に布陣。

 

黒田官兵衛

 

秀吉はここから天王山と呼ばれる要所に黒田官兵衛(くろだかんべえ)、羽柴秀長(はしばひでなが)ら自分の武将達を駐屯させます。さらに光秀軍の正面には高山右近(たかやまうこん)、中川清秀(なかがわきよで)、加藤光泰(かとうみつやす=秀吉配下の武将)らの武将を配置。そして彼らの後ろには堀秀政(ほりひでまさ)が駐屯し、山崎の地に流れる木津川付近には池田恒興(いけだつねおき)らが陣を張っておりました。こうして秀吉は光秀を迎え撃つ準備を整え終わることになります。

 

山崎の戦いは秀吉優勢ではなかった

中国大返し(豊臣秀吉)

 

山崎の戦いは天王山を握っていた秀吉が優勢であると言われておりましたが、実際は秀吉が優位に立って光秀軍を蹴散らしたわけではありませんでした。では光秀vs秀吉が激戦を戦わせた山崎の戦いはどういったものだったのでしょうか。

 

 

 

斎藤隊が中川隊に攻撃を仕掛けることから始まる

 

明智光秀の味方をしていた旧幕府軍・伊勢貞興(いせさだおき)は、羽柴軍の先鋒であった中川清秀隊へ攻撃を開始。ここから光秀vs秀吉の山崎の戦いが開始されることになります。明智家の家老であった斎藤利三の部隊は伊勢隊に呼応して、中川隊の近くに布陣していた高山隊へ猛攻をかけ、一時的に中川隊や高山隊は窮地に陥ることに。

 

しかしここで名人とあだ名されていた堀秀政が両隊の後詰として、救援したことによって中川・高山両隊は壊滅することなく戦線を持ちこたえることに成功。こうして両軍の間で先端が開かれることになるのですが、明智軍と羽柴軍の先陣が激戦を繰り広げていた頃、天王山でも激戦が開始されることになるのです。

 

 

天王山での決戦

黒田官兵衛

 

光秀隊の松田左近(まつださこん)、並河易家(なみかわやすいえ)隊は、要所と言われた天王山に駐屯している黒田官兵衛、羽柴秀長などの隊へ攻撃を開始。この天王山の戦いも一進一退の激戦の場となり、両軍は拮抗した戦いを繰り広げることになります。上記二つの戦いにおいて兵士の数が多い秀吉軍と兵士の数で劣っている光秀軍との戦いは互角の戦いを行っていたことがお分かりなると思います。では秀吉が勝利を得ることになったきっかけは一体どこなのでしょうか。

 

 

運命を分けたのは

 

秀吉と光秀の運命を分けたのは秀吉軍に所属している加藤光泰・池田恒興の部隊でした。彼らは淀川をひっそりとわたって光秀軍の一部隊を襲撃。光秀隊は加藤・池田隊に攻撃を仕掛けられたことによって壊滅してしまいます。加藤・池田隊はそのまま進軍を行い、丹羽長秀・織田信孝の部隊も加藤・池田両隊の攻撃に連動して、光秀軍の側面へ攻撃。

 

光秀本隊の側面を攻撃したことがきっかけで、正面を担当していた秀吉軍の三隊も息を吹き返して光秀軍の正面部隊へ猛攻を開始。光秀は全戦線で秀吉軍に押される形となり軍勢の体勢を立て直そうとしますが、時すでに遅し。光秀軍は全戦線で崩れてしまい体制を立て直すことができない状態になってしまいます。光秀は部下に促されて、勝竜寺(かつりゅうじ)城へ撤退することになり、光秀を逃がすために殿を行った部隊は壊滅。こうして秀吉軍は山崎の合戦で大勝利を収めることになるのです。

 

 

光秀のその後

 

光秀は勝竜寺城へ撤退することに成功しますが、この城の規模が大きくないことから籠城して秀吉軍と戦うことができないと察して、すぐに城を放棄して坂本城へ向かうべく再度退却していきます。しかし勝竜寺城を放棄したことによって彼の運命は激変することになります。

 

光秀は本拠地である坂本城へ向かう途中の小栗栖(おぐるす)の地で、落ち武者狩りを行っていた農民たちの竹槍にかかって亡くなってしまうことになります。だがこの時、光秀は本当に亡くなったのか。今でも歴史学者たちの間では疑問視されている所であります。とにもかくにも光秀軍に勝利を得たことによって秀吉は天下人へ向けて、一歩前進することになるのです。

 

 

戦国史ライター黒田レンの独り言

 

光秀は農民たちの攻撃によって亡くなってしまうのですが、彼の本拠地であった坂本城はその後どうなったのでしょうか。秀吉軍は光秀が亡くなったことを知ると堀秀政に命じて、光秀の本拠地である坂本城を攻略する様に指示。秀政は坂本城へ攻撃を開始することになります。

 

坂本城を守っていたのは光秀の従兄弟である明智光春です。彼は堀軍が坂本城へ攻撃を仕掛けてくると奮戦するのですが、敵軍の数の多さに防戦することを諦め、坂本城にあった宝物を秀政へあずけた後、城に火を放って自害して果てます。この時、光秀の息子達も自害して果てることになります。

 

こうして光秀の一族は滅亡されたと思いきや生き残りがいるのをご存知でしょうか。それは細川家へ嫁ぎ細川忠興の奥さんとなっていたお玉でした。彼女は光秀の娘であり一時は幽閉されてしまうのですが、光秀亡き後再び忠興の元へ戻されることになります。しかし彼女も過酷な運命を強いられることになるのですが、これはまだ当分先のおはなしなので、いずれご紹介させていただきたいと思います。さて秀吉は光秀に勝利したことによって、織田家においてかなり強い発言権を手にすることになります。

 

しかし彼の発言権が強化されたのを苦々しく思っていた人物がおりました。それはいったい誰なのでしょうか。

 

参考 PHP新書 明智光秀 小和田哲男著など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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