実際は鎌倉幕府のトップ!執権とは?
鎌倉時代は、武士が政権を握る初めての武家政権でした。たしかに平安時代末期、武士であった平清盛が多大な権力を持ちましたが、平氏政権は「娘を天皇家に嫁がせることで外戚となり、政治の実権を握る」という従来と変わらないやり方であり、朝廷と共存することで成り立っていました。しかし鎌倉幕府で作られた役職は、それまでの貴族が中心の政権とは、ガラッと違うものになりました。
鎌倉幕府の役職をひとつひとつ見ていくと、武家政権の構造と実態を垣間見ることができるでしょう。鎌倉幕府の役職として、まずはじめに挙げることができるのは「執権」です。
この記事の目次
鎌倉幕府の役職・執権とは?
執権とは、将軍のサポートをする役職であり、初代執権は北条政子の父である北条時政でした。この執権は、代々北条氏が歴任しました。そして、鎌倉時代が進むにつれて、政治の実権は将軍ではなく、執権が握るようになりました。
3代将軍、源実朝が亡くなった後は、摂関家や皇族から名目上の将軍を迎え、実際に政治のトップに立ったのは執権である北条氏でした。鎌倉時代の主要な出来事のひとつである元寇のときも、指揮を取ったのは当時の将軍ではなく、まだ若い8代執権の北条時宗だったのです。
執権の補佐役、連署
鎌倉時代、執権に次ぐ重役は「連署」でした。執権とともに合議して物事を決める、という役割がありました。この役職も、北条氏の有力者が就くことが多く、執権と並んでトップ2とされていたのです。連署は鎌倉幕府成立直後には存在せず、承久の乱以降設置されました。ちなみに鎌倉幕府滅亡後、この連署という役職名はその後の武家政権においてほとんど登場しませんでした。
兼任することもあった、守護と地頭
守護と地頭は、もともとは1185年に源頼朝が義経追討のために全国に設置することを許可させたものでした。しかし、義経が奥州藤原氏に殺害され、本来の役割が達成されたにもかかわらず、守護と地頭は廃止されることはありませんでした。守護は国単位で設定され、治安維持の役割を果たしていました。そして地頭は、荘園や公領、そして平家から没収した土地の管理という役割がありました。また、守護と地頭が兼任するということもありました。
武家政権ならではの役職〜侍所、政所、問注所、評定衆〜
侍所は、武家政権ならではの役職であるということができるでしょう。その名の通り、御家人たちの統率や、軍事や警察といった役割を果たしていました。政所は一般政務を担当し、問注所は訴訟や裁判を担当していました。評定衆は司法・行政・立法を管轄し、その下には引付衆という役職がありました。
幕府から遠く離れたところもしっかり監視!〜京都守護、鎮西奉行、奥州総奉行〜
京都守護は、朝廷とのやり取りや京都の治安維持を担う役職でしたが、承久の乱の後に六波羅探題という名前になりました。六波羅とは、京都の地名であり、この地にあった平清盛の邸宅を改築して役所にしたのです。承久の乱以降、幕府は朝廷の動きをさらに監視する必要があると感じていました。ちなみに、あまり知られてはいませんが、六波羅探題は北と南に分かれて2か所、設置されていました。
また、鎮西奉行は九州の御家人の統率、奥州総奉行は奥州の御家人の統率などの役割を担っていました。鎮西奉行は元寇後、元の襲来に備えるために鎮西探題と名前を改め、さらに権力が強化されました。奥州総奉行は、東北で多大な権力を持っていた奥州藤原氏が再興することがないよう、目を光らせておく必要があったから設置したとされています。
日本で初めての武家政権であるといえる鎌倉幕府は、前例がない中で武士たちが知恵を絞り、臨機応変に対応しながら統治機構を作り上げてきました。その後に続いた室町幕府や江戸幕府は、前例に倣う、ということもできたかもしれません。しかし、鎌倉幕府の武士たちは前例がない中で一から制度を作り、元寇というめったにないような出来事も朝廷に頼らず乗り越え、新しい時代を築き上げてきたのです。
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