後北条氏は初代北条早雲を筆頭に、とても有能であった一族でした。また、後北条氏は戦国時代に当たり前のように起こっていたお家騒動がなかった一族としても知られています。代々とても良い政治を行ってきたため、民衆からも慕われていましたが、1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏は敗北し、その治世を終えることとなりました。このとき、4代目の北条氏政は切腹、そして5代目の北条氏直は助命されましたが高野山に謹慎ということになりました。
豊臣秀吉の小田原征伐
さて、もとは織田信長の家臣として出世していった秀吉は、本能寺の変で主君信長が亡くなった後は着々と力をつけていき、天下人として確実な足取りで歩みを進めてきました。そのような秀吉にとって、難攻不落といわれていた小田原城を攻めることは最後の課題となっていたのです。
当時、強大の力を持ちつつあった秀吉に、従順な姿勢を見せた武将は数多くいました。「秀吉に抵抗したら、一族が滅ぼされてしまう」と考えたことでしょう。それではなぜ、小田原の後北条氏は、秀吉に抵抗するようにしたのでしょうか?このときの当主は5代目の北条氏直でしたが、まだ年若い氏直に代わって、実際に政治的実権を握っていたのは4代目当主の北条氏政であったとされています。氏政は一体何を思って、秀吉に対して抵抗したのでしょうか。
北条氏政に勝算はあったのか?
氏政が秀吉に対して抵抗した理由は、ふたつ考えられます。まずひとつ目は、「小田原城は難攻不落である」というプライドがあったことです。実際、過去には武田信玄や上杉謙信といった強敵が率いる軍団を追い返しています。そのときのことがあったからこそ、「いくら天下人に近い秀吉軍が攻めてきたとしても、負けるはずがない」と思ってしまったのではないでしょうか。
ふたつ目は、「家康と政宗が秀吉に反旗を翻せば、天下の趨勢は一瞬で引っくり返る」という期待が、後北条氏側にあったことです。小田原征伐の前は秀吉がまだ完全に天下を取ったわけではなかったので、このようなことが起こらないとも言いきれません。しかし、政宗はともかくとして、信長の時代から密接に繋がっていた秀吉と家康が離れることはそう滅多に考えられることではないのでしょうか?
確かに戦国時代は下克上が当たり前のように行われていましたが、このときの家康にとって、秀吉に叛旗を翻すことのメリットはほとんどありません。後北条家の4代目当主であった氏政は、このようなことが分からなかったのでしょうか?
少なくとも、人を見る目に長けていた後北条家の初代、北条早雲であればこのような過ちは犯さなかったはずです。
北条氏政にまつわるエピソード
後北条家4代目当主の氏政には、いくつかのエピソードが残されています。そのひとつは、大河ドラマなどでもしばしば登場する、汁かけご飯のエピソードです。北条氏政は、毎日、ご飯に味噌汁をかけて食べていたそうです。しかし、いつも、ご飯にかける味噌汁の量が少なくて、何回か汁をかけ直していました。
これを父である北条氏康が見て、「毎日の食事であるにも関わらず、ご飯にかける汁の量が分からないとは…。一族ももうこれまでだ」と嘆いていたそうなのです。また、もうひとつのエピソードとしては、農民が麦を刈っている様子を見て、「あの採れたての麦を昼ご飯にしよう」とせがんだことが知られています。採れたての麦はすぐ食べることはできず、脱穀したり乾かしたりするなどの手間ひまをかけなければならないのですが、それを氏政は知らなかったようなのです。
戦国時代ライター星野まなかの独り言
近年になって、「氏政は決して愚かな当主ではなかった」という説もありますが、このようなエピソードが残されているということから、当時の人々が「素晴らしい後北条氏の治世が終わってしまったのは、氏政のせいだ」と思い落胆していた様子がうかがえます。
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