高杉晋作と伊藤博文は、吉田松陰の松下村塾で学ぶ先輩と後輩、兄貴分、弟分というような関係でした。そして長州藩という組織の中では上司と部下という関係になります。幕末を烈風のごとく駆け抜けた高杉晋作と、初代内閣総理大臣まで上り詰めた伊藤博文。このふたりの関係から「尊敬できる上司」について考えてみましょう。
この記事の目次
松下村塾で学ぶ2人、若いころは吉田松陰からどういった評価だったの?
高杉晋作は吉田松陰も高く評価していました。多くの弟子の中から松下村塾四天王と称されるひとりであり、また久坂玄瑞と双璧とされ「識の高杉」 、「才の久坂」といわれました。高杉晋作はその知識を吉田松陰に評価されていました。また、高杉晋作が非常に負けず嫌いであることを吉田松陰は見抜き、あえて久坂玄瑞を褒め、高杉晋作の負けん気を喚起させていったといいます。
一方、伊藤博文はどうでしょうか?
高杉新作より2歳年下ですが、松下村塾には同じ頃に入塾しています。吉田松陰は伊藤博文を「才能は劣り、学問も未熟。しかし性格は素直で華美になびかない。僕はこれが好きだ」と現代風に言えばこのような言葉で評価しています。吉田松陰は伊藤博文が人と人の間に立って、調整していく政治家に向いたタイプであることを見抜いていたのでしょう。
尊王攘夷運動!英国公使館焼き討ちを行う2人
長州藩では、公武合体によるソフトランディングな改革ではなく、ラジカルに攘夷を行うべしという藩論が大勢を占めていきました。その中でも、高杉晋作は海外に渡航して上海の状況を見ていました。西洋列強に支配されるとどうなるかという現実を目の当たりにしています。
直ちに攘夷を行わなければ亡国するという切迫感が、高杉晋作にはあったのでしょう。高杉晋作は即攘夷を行うべしとして、長州藩主に訴えますが、さすがに事が大きくなりすぎてしまうことを危惧して、高杉晋作を謹慎させます。しかし、高杉晋作は攘夷実行のための、御楯組を創設。伊藤博文もそのメンバーです。高杉晋作率いる御楯組は品川にある建設中の英国公使館を狙いました。高杉晋作、 久坂玄瑞、井上馨、 伊藤博文など、吉田松陰の教えを受けた者を中心に13名が英国公使館焼き討ちを実行しました。
隊長は高杉晋作で、伊藤博文は火付け役です。伊藤博文はのこぎりを用意する周到さで、柵を切断し、公使館の中に進入し火薬球で放火しました。結果、英国公使館は全焼です。その様子を隊長の高杉晋作と副隊長の久坂は芝浦の妓楼で酒盛りしながら、燃えていく英国公使館を見物していたということです。
伊藤博文の回顧録にこのことが、詳しく書き残されています。江戸の住民もこの焼き討ちを歓迎する空気があったようです。この時点では、攘夷というのが、世論の強い支持があったということでしょう。そして、高杉晋作が余裕の酒盛り見物をしていたと書いているというこは、彼にリーダーとしての度量の大きさ、余裕があったことを伊藤博文は伝えたかったのでしょう。
俺はもう死んでいる!伊藤の悲壮な決意をさせる高杉の魅力とは?
長州藩は、四ケ国戦争の後、攘夷推進政権が主導権を失い、俗論派と呼ばれる幕府に恭順していくべきだとする勢力が藩政の主導権を握ります。幕府は長州征伐を実行するため長州に攻め入ろうとします。長州藩では幕府に恭順すべしという勢力が藩政の主導権を握っていたため、軍を動かすことをしませんでした。この事態に、高杉晋作は挙兵し、長州藩の主導権を握ろうとします。クーデター計画です。
しかし、その兵力はあまりに少なかったのです。高杉晋作が指揮する部隊は800人ほどで、藩の主導権を握っている幕府恭順派の兵力は2000人です。しかも、不利を知っているので高杉晋作指揮下の部隊は動こうとしません。高杉晋作について行った伊藤博文から見ても挙兵が成功する見込みなど無いと思える状況でした。
しかし、高杉晋作は伊藤博文に10人でもいいから同志を連れてこいと命じます。伊藤博文は身分が低く乗馬の経験などないにも関わらず馬に乗り鬣にしがみつき「俺はもう死んでいる、俺はもう死んでいる」という言葉を己の心の中に叩き込みます。
そして、高杉晋作は伊藤博文を含めたった80人で挙兵し、長州藩の軍船3隻を奪取しました。これにより奇兵隊を含む長州軍も動き出し、幕府軍を破ることになります。
伊藤博文は「俺はもう死んでいる」と思い込むことまでして、それでも高杉晋作についていきました。吉田松陰の松下村塾で高杉晋作と同じように学んでいただけに、伊藤博文は、高杉晋作の凄さカリスマ性を身にしみて知っていたのでしょう。命を捨てても高杉晋作についていくという思いを伊藤博文は抱いていたのでしょう。このクーデターの成功により、伊藤博文も藩政の中心人物となっていきます。
「高杉晋作顕彰碑文」に記された伊藤の高杉への思いとは
高杉晋作がどのような人物像を示すことで有名なのは「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し……」で始まる下関市の東行庵に残る高杉晋作顕彰碑の碑文です。この碑文は伊藤博文が書いたものです。伊藤博文が自分から書くといいましたが、完成までに2年もかかりました。
それだけ、高杉晋作という人物をどのように書き、どんな思いで高杉晋作を見つめていたのか、思いを言葉にするのが非常に大変だったのでしょう。しかし出来上がった碑文は「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し……」で始まる名文として、高杉晋作の生き様を書き記したものとなっています。
同じ吉田松陰を師とする伊藤博文から見れば、師の教えを体現した存在が高杉晋作に見えたのではないでしょうか。そして、高杉晋作に命をかけていいと伊藤博文は決意し、彼についていきクーデターを成功させます。高杉晋作のカリスマ性と実行力に、伊藤博文は心酔していたのです。その思いがここまでの名文を創り上げたのではないでしょうか。
幕末ライター夜食の独り言
高杉晋作と伊藤博文の数々のエピソードは、今の時代からみてみると過激で、一部からはテロリストではないかという意見もでてきます。しかし、高杉晋作は、上海で外国に支配されている清の実情を見てしまっているのです。そのため西洋列強に対し強い危機感を持ち、とにかく出来うる攘夷を実行します。
また、長州藩の軍制も改革し、近代化も進めていきます。伊藤博文は吉田松陰に「才能がない」と評される人物でしたが、長州藩を変え、日本を変えていった高杉晋作に命を預け、自身も幕末から明治の時代の中で表舞台に立つようになります。そして、初代の内閣総理大臣にまでなります。命をかけてもいいという上司・高杉晋作の存在が、伊藤博文自身を大きく成長させていったのかもしれません。
▼こちらもどうぞ