橋本左内が生まれた橋本家は、福井藩の奥医師である家柄でした。橋本左内は幼いころから、優秀であると評価されていました。しかし、自分の目指す目標が高すぎたのでしょうか。橋本左内は15歳のときに「啓発録」という自分の生き方の指針を決める決意書を記します。「啓発録」は、今でも福井県内の小中学校の道徳の読本となっています。
やがて左内は主君である松平春嶽に抜擢されます。幕府も広く意見を求めるという政策をとった阿部正弘が老中筆頭となった時代だったのです。そして、橋本左内はその頭脳をもって幕政に大きく関わっていくのですが……井伊直弼が大老となると一気に幕府の対応が変わります。厳しい弾圧の時代がやってきました。橋本左内は、井伊直弼と将軍後継問題で対立し、安政の大獄で刑死することになります。わずか26年の生涯でした。
橋本左内の年表
幕末期に福井藩の藩主・松平春嶽に見出され、側近として幕政に関わった橋本佐内の生涯をみてみましょう。
1834年4月19日に福井藩士・橋本長綱の子として生まれました。1849年に大坂で適塾で蘭法医学を学びます。適塾は当時日本で最先端の医学塾です。この間、尊王攘夷の思想的支柱ともなるの藤田東湖や、NHK大河ドラマ「西郷どん」でおなじみの薩摩藩の西郷隆盛や横井小楠らとの交友関係を持ちます。その後、松平春嶽の目にとまり福井藩の書院番として抜擢されます。藩主の側近という位置につくのです。1854年には藩校明道館の学監心得就任します。まだ24歳です。そして、松平春嶽の側近として、幕政の世界に大きく足を踏み入れるのです。
橋本左内の最期
橋本左内は安政の大獄で処刑されました。その原因は、幕政に深く関わりすぎたことでしょう。藩主である松平春嶽は頭脳明晰と評判の一橋慶喜擁立に動きます。他にも有力な大名、島津藩なども、一橋慶喜擁立に向け動いていました。その手足となっていたのが西郷隆盛です。
安政の大獄は、大老となった井伊直弼が幕府の権威の回復と、将軍後継問題を一気に片付けようとして行った強硬措置でした。阿部正弘、堀田正睦と続いた幕府中枢の政権が広く意見を聞くという方針をとりました。外国勢力が迫っている中、幕府だけの力ではどうしようもないという判断があったのでしょう。
しかし、井伊直弼の意見は違いました。幕政の中に外様大名勢力を呼び込んだことや、今まで幕政には口を出すことのなかった有力な藩が幕政に介入すること。将軍後継問題にまで関与してきたことに危惧を覚えていたのです。
井伊直弼は将軍を「能力で選ぶ」という今から見れば、普通のリーダーを選ぶ考え方を邪道とみなしていたのです。能力の優れている一橋よりも徳川家の血の濃い紀州藩主徳川慶福こそが将軍となるべきであり、それを支えるのが、井伊直弼のような古くからの幕臣であると信じていました。それはその当時、江戸幕府が徳川家の血を守るために存在するという、狭い範囲内での正義はあったのかもしれません。
結局、井伊直弼は一橋慶喜を時期将軍に推した勢力を弾圧していきます。このとき、西郷隆盛も入水心中未遂をしています。橋本左内は、江戸伝馬町の牢獄に入れられ、取調べを受けました。彼の斬首が決定したのは、自分は藩主の命により動いたのであるという主張が、武士らしくないということが理由になったといいます。遣り残したことの多い天才の橋本左内、短い26年の生涯でした。
西郷隆盛から見た橋本左内
ともに、一橋慶喜を時期将軍にするために動いていた西郷隆盛と橋本左内。幕末の英傑・西郷隆盛から天才・橋本左内はどう見えていたのでしょうか。西郷隆盛は初対面で、橋本左内を痩せてて弱々しく、女々しい言葉遣いの男として少し馬鹿にしていたようです。しかし、橋本左内との交友が深まるにつれ、彼の深い学識や外見からは想像できないような苛烈と言っていい内面の情熱に気が付いたのでしょう。橋本左内を非常に高く評価するようになります。
橋本左内の名言集
橋本左内の残した名言の多くで現代で高く評価されているのは「啓発録」の言葉でしょう。
「第一番に稚心を去らねばならぬ」という名言が「啓発録」にあります。親への甘えや怠け心が学問に対し大敵であり捨て去るものだと断言しています。
「目標に到達するまでの道筋を多くしないこと」という名言も「啓発録」の中にあります。15歳でこの言葉は恐れ入ります。現代の多くの部下を従えたプロジェクトリーダーのような言葉ではないかと錯覚しそうですね。
「勉、つとめるというのは、自己の力を出し尽し、目的を達成するまではどこまでも続けるという意味合いを含んだ文字である。」という言葉も「啓発録」です。自分の目的を設定したら、それを達成するまで手を抜くなということですね。つまり学問、勉強とはそのようなものであると、橋本左内は15歳で言っているわけです。やはり天才です。
「男子たるものが憂慮するところは、ただ国家が安泰であるか危機に直面しているかという点のみ。」
この言葉も「啓蒙録」からですが、幕末という時代背景を考えると「正義」であり「名言」でしょう。ただ、今の世の中で受け入れられる言葉かどうかは難しいですね。どんな天才の言葉でも時代の壁を乗り越えられない言葉はあるものです。それでも、橋本左内の残した言葉の多くは、社会や学問の本質を突いた言葉が多いです。国家について、述べた言葉にしたところで、究極的に国家がなければ、個人は不幸になることは間違いありません。現代の多くの崩壊国家を見れば、彼の言葉が真実を突いているは確かです。ただ、オブラートも何もない言葉ではあるのですが。
幕末ライター夜食の独り言
もし彼が安政の大獄で、26年間の短い人生を終えなければ、いったいどのようなことを成し遂げたのでしょうか。そもそも、安政の大獄がなければ、幕府が新政権の中に組み込まれた歴史があったかもしれません。世界的には評価の高い「明治維新」がよりソフトランディングな「明治維新」としてありえた可能性もあります。彼が本質的に医師であったせいか、その合理性が「自分は藩命に従い動いた」という言葉になったのかもしれません。橋本左内が最後に主張した合理はまだ、受け入れられる時代ではなかったのでしょう。
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