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橋本左内と吉田松陰、二人の天才の[偉業]

2024年11月22日


 

橋本左内(はしもとさない)吉田松陰(よしだしょういん)は、安政の大獄(あんせいのたいごく)で刑死しました。このふたりの天才は若くして命を落とします。幕末と言う時代の中で天才と称されたふたりはいったいどのような功績を残して行ったのでしょうか。今回は、NHK大河ドラマ「西郷どん」の主人公である西郷隆盛(さいごうたかもり)が高く評価した橋本左内と、幕末の多くの志士に思想的な影響を与えた天才・奇人の吉田松陰に焦点を当てて考察してみましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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西郷隆盛が尊敬した橋本左内とは?

 

橋本左内は江戸遊学中に幕末に名を残す人物たちと交流しています。水戸藩士(みとはんし)で全国の尊皇志士(そうのうしし)に思想的影響を与えた藤田東湖(ふじたとうこ)や天狗党の首領の武田耕雲斎(たけだこううんさい)や、幕府内で、ロシアプチャーチン来航の際に外交手腕冴えを見せた川路聖謨(かわじとしあきら)とも親交があったといいます。

 

そしてNHK大河ドラマ「西郷どん」の主人公である西郷隆盛とも親交がありました。橋本左内は、江戸ではかなり広い交流関係を持っていたのです。西郷隆盛は、史料を見ていきますと人を見る目が結構シビアです。謹慎を解いてくれた島津久光(しまづひさみつ)に対し「田舎者」という言葉を残したと伝えられます。

 

そのような人物に対し厳しい目をもった西郷隆盛が橋本左内をベタ褒めです。「先輩としては藤田東湖に服し、同輩としては橋本左内を推す」と言う言葉が残っています。橋本左内は、西郷隆盛が高名な思想家である藤田東湖と並んで評価するほどの逸材であったということです。

 

 

吉田松陰とは?

 

吉田松陰とはどんな人物なのか?

 

これは、非常に難しい話です。ある歴史家は「テロリストの扇動家」と言っています。しかし、これはあまりに極端な言い分でしょう。ただ、現代の尺度で見れば、吉田松陰の行動はかなり過激です。二度目に来航した黒船に乗り込み密航を依頼します。敵を知らねば敵を倒せないという考えはその通りなのですが、実際にやってしまうのが、吉田松陰なのです。

 

高杉晋作

 

吉田松陰の開いた松下村塾(しょうかそんじゅく)には、多くの幕末の志士が集まりました。高杉晋作(たかすぎしんさく)久坂玄瑞(くさかげんずい)伊藤博文(いとうひろぶみ)山形有朋(やまがたありとも)などなど……吉田松陰はとにかく「行動すること」を叩きこみます。学問をして学者になっていけないというのです。とにかく、実践を第一とする教えを塾生に叩きこみます。

 

ただそれは洗脳ではなく、塾生との討論という方法をとっていました。本人も桁外れの行動力で全国を行脚して様々な人と出会います。吉田松陰が師事した佐久間象山にかなり影響を受けました。佐久間象山も幕末を代表する天才ですが、彼から見た吉田松陰はかなり狂っているように見えたようです。佐久間象山も人に対する評価がキツイのですが……

 

実際、吉田松陰は謹慎中に長州藩に対し井伊直弼(いいなおすけ)の側近であった間部詮勝(まなべあきかつ)を暗殺するので、武器を貸して欲しいと願い出ます。常人の尺度では計れない吉田松陰です。松下村塾の弟子たちも師である吉田松陰を諌めますが、吉田松陰はその弟子を破門します。とにかく、思ったら行動あるのみ。吉田松陰とは、そのようなタイプの天才だったのです。

 

 

安政の大獄とは?

 

安政の大獄とは江戸幕府の大老、井伊直弼の実行した思想弾圧です。そしてその背後に将軍後継問題が絡みます。井伊直弼は、開国派であり逆に「日本が海外に進出すべきである」という意見書を大老就任前、彦根藩主(ひこねはんしゅ)時代に幕府に提出しています。

 

そして、井伊直弼は老中筆頭の阿部正弘(あべまさひろ)が死去すると幕政の中心に踊り出ます。井伊直弼は朝廷の勅許(ちょっきょ)をえないまま、日米修好通商条約を結びます。これが、国内の攘夷思想(じょういしそう)尊皇思想(そうのうしそう)に火をつけています。朝廷に無断で外国と条約を結んだことで、井伊直弼を責める大名たちが江戸城に殺到します。井伊直弼は彼らを片っ端から謹慎、登城禁止、隠居などの処罰を強行します。

 

 

元々、幕政の中枢に外様(とざま)大名などの「よそ者」が入ってくる阿部正弘のやり方に反発を感じていた井伊直弼は、躊躇などありません。幕府の権威復活が正しい道であり、その幕府を支えるのが、井伊家などの譜代であり「優秀な人材だから将軍」にするという言い分にも反対し、将軍後継問題でも反対派を次々処断します。これが、安政の大獄の開始です。

 

その中で、幕政に深く関与し、将軍後継問題で対立していた橋本左内は26歳で処刑されます。吉田松陰も裁判で、老中暗殺計画を正々堂々と告白。そして、己の「危険思想(幕府から見て)」をとうとうと語りだすのですから、もうどうしようもありません。吉田松陰も安政の大獄により29歳で刑死することになります。最初の犠牲者でした。吉田松陰は、刑死の前に、橋本左内について、会ったことはないが、会ってみたかった人であるという言葉を残しています。

 

 

二人の天才が後世へ与えた影響

 

幕末に生まれたふたりの天才、吉田松陰と橋本左内は、若くして刑死します。しかし、彼らが生きている間に残した影響は大きなものだったのです。吉田松陰は、松下村塾を開きました。史料は残っていませんが90人ほどがそこで教えを受けたと考えられています。奇兵隊を創設した高杉晋作も塾生ですし、「棒きれ」と称された山形有朋は維新後、大日本帝国陸軍創設者のひとりとなります。初代内閣総理大臣の伊藤博文も塾生です。この他にも維新、戊辰戦争で活躍した人材を数多く輩出しています。

 

近年テロリストを輩出したということを主張する本も出ていますが、それはあまりに一方的な言い方でしょう。松下村塾の教えは「討論」によるもので、師から一方的に教えを強要され、洗脳されるようなものではなかったのですから。

 

橋本左内は、福井藩士で名君と呼ばれた松平春嶽の側近として、幕政に大きく関与し、将軍後継問題で井伊直弼と対立し、刑死します。彼が目立つ場所で活躍した期間は短いですが、西郷隆盛を初め、多くの人が橋本左内の死を惜しむ言葉を残しています。橋本左内は刑死しましたが、彼の尊皇思想は幕末の志士の中に色濃く残っていきます。

 

 

幕末ライター夜食の独り言

 

幕末期には多士済々(たしせいせい」)の才能にあふれた人物が排出します。そのすぐれた人物が、尊皇、佐幕(さばく)、開国、攘夷といった当時のイデオロギーの中で色分けされ、対立をし、中には命を落とす者が多くいました。安政の大獄では日本に有意な人材を多く失っています。橋本左内や吉田松陰の名はその中でも真っ先にあがるでしょう。

 

安政の大獄は政治闘争のひとつであり、井伊直弼にとっても、日本の難局を乗り切るため、己が独裁者となっても、幕府の権威を維持しつつ、日本のかじ取りを行うつもりであり、その邪魔な存在の排除であったわけです。明治政府も、自分たちの方針に逆らう者に対する弾圧は行っており、権力者は外部の難局に対峙したとき、内部の引き締めを行うのは歴史のひとつの法則のようなものではないでしょうか。ただ、橋本左内と吉田松陰は刑死しましたが、彼らの残した思想までは消すことはできかったのです。

 

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歴史大好き。特に江戸時代から幕末、太平洋戦争にかけては好きすぎるくらいです。戦史が好きですので、時代を超えて「戦いの歴史」が好きという者です。よろしくお願いします!! 好きな歴史人物:田沼意次 何か一言:歴史小説もWEBで公開しています。

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