阿部正弘と島津斉彬はドラマやフィクションの中では親友であったとされることが多いです。確かに政策面で利害が一致している部分が多かったのはありますが、親友というよりは、「政治家としてのパートナー」と言った方が言葉としては近いのではないでしょうか。
そもそも、幕府直参で名門出身の阿部正弘と、幕府の最大監視対象で「仮想敵国」の薩摩藩は普通であれば、親しくなるはずがないのです。しかし、幕末期にこのふたりが協力したのは事実です。なぜ外様でしかも「仮想敵国」であるはずの薩摩藩の藩主・島津斉彬に阿部正弘は接近したのか、そして島津斉彬にはどんな思惑があって幕府に接近したのか。今回はその二人の関係を考察していきます。
この記事の目次
阿部正弘と島津斉彬はいつ頃出会った?
当時の日本には、頻繁に外国船が現れるようになりました。阿部正弘が老中になったのはそんな時代です。そして、弱冠25歳で老中となります。すでに外国船問題は幕府にとっても無視できない問題となっています。そのころに、阿部正弘は島津斉彬に出会ったのでしょう。
阿部正弘は、海辺に面した大藩であれば、以前からこのような事態を藩内で処理していたのではないかと考えたのです。そこで、海辺の大藩で対外問題に積極的に取り組んでいた薩摩藩に目が行くのです。幕府中枢にあった阿部正弘が外国船問題に対処するため動いた結果、島津斉彬と出会うことになったとのです。
島津斉彬を薩摩藩主にしようと調所広郷追い落としを図る
阿部正弘としては政治的パートナーとして島津斉彬に薩摩藩主になって欲しいという思惑がありました。しかし、薩摩藩では、財政を立て直したばかりで、ここで「蘭癖」という評判の島津斉彬を藩主にすれば、再び財政が傾く危険もあります。また、島津斉彬は積極的に琉球貿易の拡大を訴えていました。
※蘭癖:西洋文明に憧れ、それを積極的に取り入れる性格の事
そんなとき、幕府の老中であった阿部正弘は島津斉興排除を計画します。琉球の密貿易に関するネタで薩摩藩に揺さぶりをかけ、藩主であった斉興を引退させようと画策したのです。しかし、それは薩摩藩の財政を立て直した調所広郷が、ひとりで罪をかぶり切腹してしまいます。結果、島津斉興排除は失敗し琉球貿易問題で、斉興、斉彬親子の対立は更に先鋭化していってしまいました。阿部正弘、大失敗です。
【お由羅騒動】を利用し斉彬を藩主に擁立
島津斉彬が藩主になったのは、薩摩藩のお家騒動である「お由羅騒動」が露見し、阿部正弘が将軍家慶に報告、幕府の仲裁(介入)という形で、斉興を隠居させることに成功してからでした。
「お由羅騒動」は斉彬の腹違いの弟である久光を次期藩主にしようとお由羅方を中心とした勢力が画策したものとされています。当時の史料は今でも残っており、斉興、斉彬の親子で「呪殺」の文章をガンガン書いてお互いを呪い殺そうとしていたようです。
ただ、元凶とされたお由羅方が、具体的に何かをしたという証拠はなく、久光に至ってはその後、斉彬の路線を引き継ぎます。「お由羅騒動」とは、島津藩内の斉興、斉彬の親子喧嘩であった可能性が高いのです。阿部正弘はそれを上手く利用して介入したといえるでしょう。
阿部正弘がスムーズに日米和親条約を結べたのは島津斉彬のお陰
黒船ともに、ペリーが来航しますが、すでにその情報を江戸幕府は掴んでいました。阿部正弘は対策のため、川越藩、彦根藩に浦賀の周辺警備を依頼し、各所の意見を聞きますが、意見がバラバラでした。そもそも長崎奉行は「デマ説」をとり、海岸防御御用掛は条約反対でした。
阿部正弘は朝廷や諸大名にも連絡をとり、対処方法を練りますが、朝廷・公家はそもそも日本が「鎖国」しているのは日本開闢以来の国是であると思い込んでいますので、夷敵を神州(日本)に入れるのは大反対です。
※日本開闢:日本が建国した時という意味
そんな中、近衛家と親戚であった島津斉彬が朝廷・公家に対する工作をすることでなんとか、強硬な攘夷論を鎮めることに成功します。しかし、阿部正弘が広く意見を求めてしまったことで、政治参加の気風が盛り上がってしまいます。また、朝廷の存在感も強くなってしまうのです。
その結果、島津斉彬の死後、長州藩が京都を制圧すると一気に「攘夷」の機運が盛り上がり、それを実行できない幕府は弱腰であるという批判が起きます。その動きがやがて、討幕へとつながっていくのです。実際、史実を検証すれば、江戸幕府は非常に粘り強く交渉し、「日本人は手ごわい交渉相手だ」と相手に思わせてはいたのですが、幕府の外交政策の再評価が始まったのはごく最近のことになります。
阿部正弘の死に際して島津斉彬が残した言葉
阿部正弘は39歳で亡くなりました。島津斉彬はその報を聞いて「阿部を失いたるは天下のために惜しむべきなり」という言葉を残しています。阿部正弘は、危機に際し広く意見を求めるというかつての幕府ではあり得ない方法をとりました。
その考えはある意味近代的であり、それにより幕府の敵であった薩摩と幕府が協調するという、従来の幕府と、薩摩の関係ではあり得ない政治状況が生まれたのです。もう少し、阿部正弘が健在であり、薩摩でも島津斉彬が急死しなかった場合、幕府を組み込んでの明治維新、近代化という歴史の流れもあったかもしれません。
【大胆推理】2人が仲良くなった意外な理由、、どっちも胃腸が弱かった
「同病相哀れむ」という言葉がありますが、同じ病気を持っていると結構意気投合してしまうことは、現代も出もあり得ます。歳をとってくると、病気と健康の話題ばかりになって、それで盛り上がる様になるともいいます。そして、阿部正弘も、島津津斉彬も胃腸が弱かったという持病があったのです。そもそも、阿部正弘は消化器系の病気で若死にしています。
島津斉彬の死因も消化器系の病気であったという説もあります。現在残っている写真ではかなりやせていますので、胃腸はあまり強くなかったのでしょう。こういった、ふたりが「最近腹の調子が悪うござる」というような会話で盛り上がって中が良かったという可能性もゼロではないかもしれません。
幕末ライター夜食の独り言
阿部正弘は幕府の老中であり、まずは幕府、徳川家を維持することが第一目標です。幕藩体制の政治とは究極的には、徳川家を未来永劫存在させるためのシステムです。その中で、阿部正弘は対外問題で、広く意見を求めていきます。これは、今から見れば正しい政策であろうし、批判されるべきものではないでしょう。しかし、当時の幕府の旧守派からすれば、あり得ない暴挙です。
そして、政治に意見を言っても良いという気風は幕府の権威を相対的に低下させることでした。井伊直弼はそれを理解し、幕府の権威を立て直すため「安政の大獄」と呼ばれる弾圧を実行します。島津斉彬は優れた開明的な政治家であり、その存在の重要性は明治維新の起点となった人物であると評してもいいくらいでしょう。
そして、このふたりの間に現代でいう友情があったのかどうか、それは分かりませんが、ただお互いのその能力を高く評価していたことは確かであった言えるのではないでしょうか。
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