こんにちは。光月ユリシです。拙著「三国夢幻演義 龍の少年」に関心を持ってくださり、ありがとうございます。紆余曲折、長かった孔明少年の物語もいよいよ佳境を迎え、舞台は荊州長沙へ。三国志では、あまりスポットの当たることない長沙ですが、「三国夢幻演義」では非常に重要な場所になります。今回はそんな長沙関連の解説をしてみます。
長沙という場所
秦の始皇帝が全国を統一した時に長沙郡が作られて以来、「長沙」の名称が現代まで息づいています。後漢末期から三国時代にかけて、長沙郡は一時期劉備が支配しますが、三国時代は基本的に呉の領土です。
現代中国では湖南省の省都にあたり、湖南省の政治・経済・交通・教育の中心都市です。湖南省内はもちろん、他省からも長沙に人が集まってきます。しかしながら、在住日本人は少ないです。
長沙(厳密にはその近く)は毛沢東の故郷ということもあり、当然ながら、毛沢東推しの街です。彼の青年時代の巨大な頭像がランドマークとして脚光を浴び、観光客を集めています。
推し方としては、とにかく毛沢東。そして、屈原という感じで、三国時代を推している感じはありません。そういう意味では残念です。
ここ掘れ、長沙
長沙を有名にさせているものがもう一つあります。それは、馬王堆(まおうたい)漢墓(前漢初期の長沙国丞相・利蒼の墓)です。1972年に発掘されましたが、副葬品の文物は貴重なものばかりで、歴史研究に役立っています。
そして、それらを凌駕するほどの発掘物が利蒼(りそう)夫人のミイラです。約2200年前の遺体にもかかわらず、死んだ直後のような保存状態だったことが世間を驚かせました。現在は湖南博物館に収蔵展示されています(写真撮影禁止)。
他にも、三国孫呉時代の簡牘(かんとく)(木簡・竹簡などの文書)が多く出土しています。市内にある簡牘博物館にそれらの一部が展示されていて、それを見学した時はまだ紙が一般的でなかった当時に思いを巡らせました。こんなものに記録していたなんて、大変だったんだなぁ・・・。
紙の発明は本当に偉大ですね。因みに製紙法を発明・改良した後漢の宦官・蔡倫も湖南省の人です。三国時代でいうところの桂陽郡耒陽(らいよう)県ですね。蔡倫記念館があります。また、そこは劉備に仕えたばかりの龐統が県長として赴任するところです。
漢方医学の功労者・張仲景
三国志関連の名医と言えば、華佗と張仲景の二人が真っ先に思い浮かびますが、外科的名医の華佗に対し、漢方を駆使した内科的名医が張仲景でした。中国の薬局には漢方系の薬も多く置いてありますし、街には漢方専用薬局もちらほら見られます。やはり、漢方は今でも信用があるんですね。後年の孔明は薬の知識を持っていたようですし、張仲景と出会って、薫陶を受けたのかもしれません。
張仲景は政治家の一面もありました。彼が長沙太守を務めていたのは、孫堅の死後、西暦196,7年頃までの数年間と思われます。彼の著した「傷寒雑病論」では、当時、傷寒(しょうかん)という伝染病が大流行していた様子が記録されています。
長沙は湿気が多いので、夏は蒸し暑く、冬はとても寒い上、雨も多いんですよね。衛生的にしっかりしていない当時は、そりゃ伝染病が流行ったって無理もない。湖南料理は唐辛子を大量に使った中国でも一、二を争う激辛料理(日本人にとって)ですが、そんな気候が関係あるんでしょうね。長沙に住んでみて、肌で感じた印象です。
【独り言】
前述しましたが、私は以前長沙に滞在していたことがあります。「三国夢幻演義」の構想の中で、長沙は重要な場所になることは織り込み済みだったので、滞在しながら、湖南各地をロケハンしていました。長沙でのロケハンは非常に有意義なものでした。得られた情報は豊富かつ貴重で、作品にも十分生かされています。最初は考えていなかった着想も生まれましたし、新しい展開にも繋がりました。
長沙は物語の展開上、重要な場所になります。孔明にとっても、それは同じです。そして、私にとっても、思い出深い地になりました。ロケハンの様子は別途「三国夢幻紀行」(←ここは掲載時のタイトルで)という記事にて紹介していますので、興味のある方は是非そちらもご覧になってください。
三国夢幻演義 龍の少年 第1話「命の山」見逃し配信
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