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【応仁の乱550年祭り】応仁の乱 重要人物ランキング カウント14

2017年11月25日


 

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今年、2017年は、1467年の応仁の乱から、550年のメモリアルイヤーです。

しかし、応仁の乱って地味ですよね?戦国時代なら、どんなに知らない人でも、

信長・秀吉・家康位は分かるのに、応仁の乱と言われると、正直、鎌倉時代と

区別がつかない、そんな人も多いのではないでしょうか?

そこで、今回は、応仁の乱の主要人物14名をカウント、重要人物を勉強して

ついでに応仁の乱も理解しちゃいましょう。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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カウント1 西軍の総大将 元気な老人 赤入道 山名宗全

 

山名持豊(もちとよ)(宗全:そうぜん)は、応仁の乱の西軍の総大将です。

1404年、守護大名の山名時煕(ときひろ)の三男として産まれました。

普通なら、後継者には遠いのですが、長兄の満時が死去したので、

にわかに後継者候補に浮上してきました。

 

1428年、父、時煕が重病になり、後継者に指名されますが、

そこに、「万人恐怖」と言われた独裁者、六代将軍の足利義教が待ったを掛け、

自身の側近の次兄の持煕(もちひろ)に家督を継がせるように命令を出しました。

 

この事に山名家は動揺しますが、幸いに時煕は持ち直した上、1431年には、

次兄の持煕が足利義教の勘気を蒙り廃嫡されたので、無事、1433年に

家督を継ぎ、但馬、備後、安芸、伊賀の四カ国の守護になりました。

 

その後、宗全の家督相続に不満を持つ、持煕が備後で乱を起こしたのを鎮圧、

1441年に、因縁のある足利義教の供をして、赤松邸に入り義教が赤松満祐に

殺害されるという嘉吉の乱に遭遇すると、満祐に抵抗せず屋敷を脱出。

 

やがて、同族の山名教清(のりきよ)、山名教之(のりゆき)、

息子の山名教豊(のりとよ)と共に兵を起こして、赤松氏の居点、播磨に侵攻、

城山城を陥落させる手柄を立て、領地に播磨を加え、五カ国の守護になると共に

一門では、10カ国を領有する大守護大名に成長し管領家である細川氏に

匹敵する勢力となりますが、同時に復権を狙う旧赤松氏の怨念を

一身に集めるようになり、動向に神経を尖らせ応仁の乱の遠因になります。

 

1454年、50歳の時に、一度は隠居したのですが、実権は手放さず、

その為に後継者の教豊とも1460年に喧嘩、教豊が播磨に逃げるという

事件まで起こしています(間もなく和解)。

 

宗全の性格は一言で言うと、傲岸で無礼、赤ら顔で好戦的な性格の偉丈夫で、

同時代を生きた、一休さん、一休宗純は、「毘沙門天の化身」と評しています。

当時の山名軍は、そんな宗全が率いたので、非常に強く乱暴な事で悪名も高く、

それを鼻に掛けた宗全も自惚れが強く、相手が足利将軍で自分に明確な落ち度があっても

悪態をつき、罵声を浴びせ、相手が激怒して、兵を出す段階になって

ようやく陳謝する程度であったそうです。

 

一方で、自分の部下に対しては、温情が深い所があり、部下が死ぬと法要を行い

病気の部下には、僧侶に祈祷を上げさせるなど、細かい配慮をします。

このように、どれだけ傲岸無礼でも味方には、慕われたのが、

宗全が権力を維持した秘訣だったのでしょう。

 

応仁の乱では、敵対関係だったので、東軍の大将である細川勝元(かつもと)とは、

不仲のように思われがちですが、元々はそうではありませんでした。

 

細川氏は一族全体で9カ国の守護であり、山名氏は赤松氏を嘉吉の乱で滅ぼし、

旧赤松領を併せて10カ国の守護になっていたので、年下の勝元は下手に出て

宗全を味方に引き込もうとし、宗全の養女を正室に迎えた程でした。

 

それは、強力なライバルである、畠山持国に対抗する為でもありました、

実際に、畠山氏の封じ込めでは共闘し、庇いあった両者ですが、勝元は、

山名氏の勢力が伸びる事に危惧を覚え、次第に距離を置きだします。

 

こうして、斯波(しば)氏の後継者争いでは、宗全が姻戚関係から、

斯波義廉(よしかど)を支持すると、勝元は対抗馬の斯波義敏(よしとし)を支持します。

そこでムッとした宗全ですが、さらに勝元は宗全の仇敵である赤松氏の遺児

赤松政則(まさのり)を支援し、加賀半国の守護大名とし赤松家を再興させます。

 

宗全「勝元ぉ・・おのれは何してくれとんねん ゴルァ!」

 

山名氏から、旧赤松領地の回復を狙う赤松政則を勝元に復活させられ、

宗全も怒り心頭です。

 

宗全「ええわい、そっちがその気なら、こっちも考えがあるで」

 

こうして、宗全は、明との勘合貿易利権で、細川氏と対立していた

大内正弘(おおうち・まさひろ)や、河野通春(こうの・みちはる)を支援していきます。

 

勝元「あの、ゆでタコ、わしのシマにケチつけんのかい!」

 

激怒した細川勝元は、息子がいないので、養子にしていた宗全の末子の

豊久(とよひさ)を子供が産まれたからと廃嫡し仏門に放り込んだのです。

 

1466年、将軍家では、義政の弟の足利義視(よしみ)と義政の正室の

日野富子(ひの・とみこ)が産んだ、足利義尚(よしひさ)のどちらを

将軍後継者にするかで、争いが起こります。

 

元々、義政は政治に飽きており、隠居して大御所として権力を握ろうと

弟の義視を僧侶から還俗させて、後継者に指名していたのですが、

1464年に、妻の富子に、義尚が産まれて事態が一変したのです。

 

ここでは、細川勝元も山名宗全も、足利義視を支持、これは義政の側近で

義尚を支持していた幕府政所の長官、伊勢貞親(いせ・さだちか)を牽制する目的でした。

足利義政は、二人の守護大名に迫られては、足利義尚を将軍にも出来ず、

義視支持に回り、伊勢貞親は京都から逃げ出します。

こうして、将軍家から実力者が消えると、宗全は追放されていた

畠山義就(はたけやま・よしなり)を上洛させ義政に赦免させます。

 

さらに、1467年には、勝元が管領につけた、畠山政長(まさなが)から

強引に管領職を取り上げ出仕停止処分にし、代わりに宗全が支援する

斯波義廉(しば・よしかど)を管領にしてしまいます。

元々、勝元が宗全と組んだのは、畠山氏を牽制する為でしたが、ここで宗全が、

明確に、畠山義就支持を打ち出し、勝元が推す畠山政長を拒否したので、

両者の激突は回避不可能になったのです。

 

応仁の乱は、将軍家と皇室を抑えた山名宗全が当初は優勢でしたが、

細川勝元が皇室と将軍家を奪還、宗全は賊軍になり苦しい戦いを余儀なくされます。

しかし、ここで、西国の雄、大内正弘が西軍に参戦し、さらに将軍家から、

不遇な状態の足利義視が寝返り、西軍に入り、将軍として振る舞う事になり、

西軍は持ち直しますが、決定打は出ず、ひたすら消耗戦だけが続きます。

 

それでも武人としての矜持がある宗全は元気で、66歳の時には、

西軍の本陣に突入した東軍兵士に対し、鎧兜を身に付けて追い払う武勇を見せますが

寄る年波には勝てず、晩年には、中風(脳卒中)に罹り、筆を持つ事も出来ない程に衰え、

和平を望みながらも、西軍大名に反対意見が多く上手く行かず、応仁の乱6年目

1473年に70歳で没しました。

 

一説では、和平が纏まらない責任を取り、切腹して失敗、

その傷が悪化して死んだという話もあります。

宗全亡き後、山名氏は、有力な指導者が現れず、東では宿敵である、

赤松政則に領地を削られ、戦国期には没落していく事になります。

 

カウント2 東軍の総大将 途中で乱に飽きて文化事業へ 細川勝元

 

細川勝元は、1430年、細川持之(もちゆき)の嫡男として産まれました。

ライバルである山名宗全より26歳年下という事になります。

1442年に父が死去、13歳で家督を相続し、叔父の細川持賢(もちかた)に

後見されて、摂津、丹波、讃岐、土佐の4カ国の守護になりました。

1445年、16歳で畠山持国に代わり、管領に就任すると、以後は3度、

23年間も管領職を歴任して、幕政に影響を及ぼしました。

 

管領というのは、将軍の補佐であり、副将軍クラス、事実上のナンバー2で、

斯波家、畠山家、細川家の足利家の血統しか就任できない世襲職。

 

当然、この三家は、管領の地位を巡り、激しく争う事になり、

お互いの家を没落させようと跡目争いに介入しあいます。

事実、応仁の乱は、この斯波家、畠山家の後継者争いと

将軍後継者問題が複雑に絡んでから起きた事なのです。

 

細川勝元にとって、当面の敵は、畠山持国でしたので、こちらと対抗する為に

新興の赤入道、山名宗全と手を組んだという話は、山名宗全の所で書きました。

 

畠山持国は、6代将軍、足利義教に家督を追われた元当主の復活を画策すると、

ライバルの勝元は、それに対抗して、義教に取りたてられた大名や国人(地元豪族)を

支持、信濃・大和・加賀で畠山と細川の代理戦争が頻発する事になります。

 

そして、1454年、勝元にとってチャンスが訪れます。

畠山持国には、正室との間に子供がなく弟の持富を後継者にしていたのですが、

途中で気が変わり、庶子の畠山義夏(よしか:後の義就)を召出して後継者とし、

持富を廃嫡してしまうのです。

 

しかし、対応が急だったので、一部の家臣が猛反対、家臣団は、新たに

持富の子の弥三郎政久(まさひさ)を後継者にして、義就派と対立、

とうとう畠山家は内乱に突入するのです。

 

これは、勝元には願ってもない事で、山名宗全と共に、弥三郎を応援し、

元々は優勢だった義就は敗北して、失踪してしまいます。

 

ところが、山名と細川が手を組んでいる事は、8代将軍、足利義政には、

面白くない事でした、両者とも横暴で無礼で尊大な性格であり、力を持つと、

自分を無視しかねない事から、まず、山名宗全が嘉吉の乱で滅ぼした、

赤松氏の遺児、赤松政則を許して、守護大名に復帰させようとします。

 

つまり、赤松に恩を売って、その山名氏への復讐心を利用し

自分の駒にして使ってやろうと言うのです。

もちろん、宗全は猛反発、罵詈雑言を並べて反対したので

義政が激怒し、山名氏追討を命じようとします。

 

ここで、山名氏とは同盟関係の細川勝元が登場して義政を諌めます。

両者と戦っては分が悪い義政は、宗全追討を思いとどまりました。

 

その後、宗全は、但馬で挙兵した、赤松則尚を討伐する為に出兵、

しかし、この時に、一度は失踪した畠山義就が京都に出現し足利義政と会見、

義政は、新しい手駒として、義就を利用しようと一度は弥三郎に与えられた

畠山氏の家督を奪い義就に与えてしまいます。

 

どうやら、義政は、赤松政則を手駒に出来なかったので、

細川氏の宿敵である義就を手駒にしようと企んでいたようです。

 

細川勝元にとって、弥三郎は御しやすい相手ですが義就は違います。

こいつが、畠山氏を継いだら洒落にならんと、弥三郎の支援に入れ込みます。

 

勝元には、幸いな事に畠山義就は、戦国大名の走りのような人物で、

傍若無人であり、気に入らない権威に、ハッキリ反旗を翻すパンクな人物でした。

足利義政の信任を良い事に、義就は大和まで下りて興福寺の領地を荒らし、

自分の勢力に組み込もうとし、その為に義政の信任を失います。

 

それを狙って勝元は弥三郎の赦免を義政に願い出て、こうして再び義就は、

畠山家の家督を奪われ、弥三郎が家督を相続しました。

 

こうして、畠山の勢力を封じた勝元ですが、この頃から勢力を伸ばす、

山名宗全を恐れ、これを牽制しようと考えるようになります。

それに利用されたのが、宗全の次男の山名是豊(これとよ)でした。

是豊は、宗全とは仲が悪く、それを見越して勝元は、是豊に備後と安芸

さらに山城国の守護まで任命しました。

 

山名宗全とは、距離を置きたい勝元ですが、その行動を察知した宗全が

西国の雄、大内正弘と結託するのは避けたい所でしたので、

その手前の領地に、是豊を配置する事で、宗全を牽制したのです。

 

この勝元の思惑は当たり、是豊は勝元の恩義を忘れず、応仁の乱では、

東軍に参加し、北上してくる大内政弘の軍勢と激闘しています。

 

ただ、これらの動きは、宗全も察知しており、斯波家の後継者争いでは

勝元と反対に斯波義廉を支持し、さらに勝元と対立していた、

大内政弘や河野通春を支持するようになりました。

 

そこで勝元は、宗全が最も忌み嫌う、赤松氏の再興にテコ入れしだし、

一度は潰れた赤松家が加賀半国の守護大名として復活します。

さらに、自分の後継者として養子にした山名豊久を、実子が産まれたのを契機に

強制的に仏門に放り込みました。

 

こうして、山名と細川の対立は回避不可能になり、ここに、将軍後継者問題が

加わり、西日本の守護大名と国人勢力が、それぞれ東軍と西軍に分かれて

11年も戦う応仁の乱が勃発する事になります。

 

応仁の乱は、当初、西軍が優勢でしたが、勝元は大胆な戦略で、

上京の戦いで、幕府御所を占領下に組み込み、将軍家を頼った皇室も掌中にしますが

やがて、西国の雄、大内氏の参戦や、不遇の状態の足利義視が西軍に逃げた事で

戦線は膠着状態になり、泥沼に入り込んでいきます。

 

勝元は戦争に飽き、情熱を失い、和睦しようにも、東軍に反対が多くて出来ず、

現実から目を背けるように文化事業や禅に傾倒、医学書の全集を編纂するなど

「うわーあんた、どこに情熱、燃やしてんねん」と突っ込みたくなる

後ろ向きな行動を続け、1473年、ライバル、山名宗全の後を追うように、

44歳で死去しました。

 

勝元は無能では無かったのですが、策略の大半は自分の私益の為であり

ライバルの山名氏や義政の反発を招き、応仁の乱を引き起こし、その後、

細川氏も没落していく事になります。

 

カウント3 応仁の乱は8割方 コイツの責任 足利義政

 

足利義政は、1436年、「万人恐怖」と呼ばれ将軍独裁を敷いた、

6代将軍、足利義教の側室、日野重子を母として産まれました。

 

同母兄に足利義勝(よしかつ)がいて、そちらが将軍候補者として大事にされ

兄が政所執事の伊勢貞国(さだくに)の屋敷で養育されたのに対して、

将軍就任の可能性が低かった義政は母方の一族である公家、

烏丸資任(からすま・すけとう)の屋敷で育てられる事になります。

 

1441年、父が嘉吉の乱で、赤松満祐(みつすけ)に暗殺され、

兄の義勝が7代将軍になりますが、僅か2年後に義勝は

9歳で死去、急遽、8歳の義政が管領、畠山持国(もちくに)の後見を得て、

1449年13歳で元服して8代将軍に就任します。

 

義政は、政治的に無能な文化人将軍のイメージがありますが、

それは後年のイメージで将軍になった頃は、父、義教や、

祖父の足利義満のような「強い将軍」を理想として積極的に

守護大名の後継者問題や、鎌倉公坊と関東管領上杉氏の内紛に

介入していますが、調停能力も先読みも出来ず

大概は失敗に終わり事態を悪化させています。

 

おまけに、義政には、三魔(さんま)と呼ばれた厄介な身内も存在しました。

それは、自身の乳母だった今参局、養父でもある烏丸資任、さらに、

将軍側近の有馬持家(もちいえ)、さらに、母である重子と正室の富子の日野家

それらに加えて、細川、斯波、畠山、山名のような守護大名が、

自分の利権の為に政治に介入し、将軍専制を目指す義政の足を引っ張ります。

 

これに対抗する為に、義政は、政所執事の伊勢貞親を筆頭とする政所、

奉行衆、番衆を中心とする将軍側近集団を基盤にしていきます。

 

義政の最初のつまずきは、加賀守護だった富樫(とがし)氏の内紛への介入でした。

しかし、ここでは管領の細川勝元が反対し、家督を自在に動かす事が出来ません。

 

1451年にも尾張守護代であった織田郷広(さとひろ)の復帰を図りますが、

尾張・越前・遠江守護だった斯波義健(よしたけ)や守護代

甲斐常治(かい・じょうち)の反対を受けて果たせませんでした。

 

この事は将軍義政のプライドを損ねたようで、さらに強引な介入を開始します。

西暦1454年、畠山氏の後継者問題が起こりました。

畠山氏に遺恨を持つ、細川・山名氏は、当主、畠山持国が最初に後継者に決めた

弟の持富(もちとみ)の子の畠山政久(弥三郎)を庇護、対抗馬で持国の子だった

畠山義就を京都から追い落としました。

 

守護大名の№1と№2細川氏と山名氏が結託した事を面白く思わない義政は、

ここで、持国が新しく後継に指名した庶子、畠山義就を支持します。

 

義政は正久を匿った勝元の被官を切腹させ、本気度合いを示します。

同時に、義政は嘉吉の乱で滅んだ赤松家の再興を画策しました。

赤松の領地は、山名宗全に接収されているので、赤松氏を抱き込めば、

山名氏に対する強力な駒になると考えたのです。

 

これに山名宗全が猛反発すると、義政は山名宗全の退治を命令、

しかし、これに細川勝元が「待った!」を掛け、宗全も隠居を表明して

恭順の意を示し、宗全の退治は中止になりました。

 

その後、赤松氏の生き残りの赤松則尚(のりひさ)が反乱を起こした時、

山名宗全が但馬に下向した隙に、匿っていた義就を上洛させ、

畠山氏の家督を与え、畠山政久は没落する事になります。

 

1455年には、関東版の戦国時代に発展する享徳の乱が発生します。

元々、関東には、足利尊氏(たかうじ)の次男の基氏(もとうじ)が、

鎌倉公坊として入り、それを関東執事の上杉家が補佐していましたが、

歳月を経るうちに京都の幕府と仲が悪くなり、同時にお目付け役の

関東管領、上杉家とも対立するようになります。

 

その後、鎌倉公坊の足利成氏(しげうじ)が関東管領の上杉憲忠(のりざね)を

暗殺する享徳の乱を引き起こし、これに対して、義政は関東管領を支持し、

憲忠の弟の上杉房顕(ふさあき)を新しい関東管領に任命、

駿河守護、今川範忠(のりただ)、越後守護の上杉房定(ふささだ)を出陣させます。

 

幕府の追討軍は、成氏の本拠地の鎌倉を落としますが、成氏は古河に逃れて、

古河公方(ふるかわ・くぼう)を名乗りました。

 

しかし、古河公方に味方する守護大名も多く、幕府方は攻めあぐねます。

義政は、事態を解決させる為に、1458年、異母兄の足利政知(まさとも)を

新しい鎌倉公方として下向させますが、政知は抵抗にあい、鎌倉には入れず、

伊豆に留まり堀越公方となり、関東には、二人の鎌倉公方が出現する事態になりました。

 

さらに、この頃、義政が信任した畠山義就が、信任を良い事に大和まで下りて、

興福寺の領地を荒らし、反興福寺の国人衆と結託していきます。

これに呆れた義政は、細川勝元の勧めもあり、1459年に一度は家督を奪った

政久を赦免、政久の没後は、1460年、弟の畠山政長に家督を与えて、

畠山義就を追放してしまいます。

この頃の義政は、細川&山名と共同歩調を取っていたようです。

 

義就は決定に反旗を翻して抵抗しますが、戦いで、政長に敗れていき、

1462年、吉野に逃れていきます。

 

義政はこれに懲りて、寺社勢力を味方につける為に、

不知行地還付政策を取り守護大名と国人勢力の結びつきを制限しようとしますが、

これが、また、新しい抗争の火種になります。

 

その頃、越前の守護である斯波氏は、代々短命な当主が続き、

その下にいる被官人評定に実権が移っていました。

 

当時、越前では、甲斐氏と織田氏と朝倉氏が被官人でしたが、

その中で甲斐氏の常治(じょうち)が非常に有力で、実質越前の主のような状況でした。

当然、当主の斯波義敏は、常治と仲が悪い状態であり、反甲斐氏の国人と

結んで対抗しようとしますが、義政の不知行地還付政策は守護と国人が、

結びつくのを制限しているので、それは甲斐氏に有利で斯波氏に不利でした。

 

当然、斯波義敏は、義政に不満を持ちますが、

そんな義敏と常治に義政は、古河公方追討軍に参加するように、命令を出したのです。

三管領家の一人である斯波氏が討伐の先頭に立てば、

士気もあがるだろうと考えたのでしょう。

 

もちろん、そんな命令は、義敏には悪い冗談にしか思えませんでした。

 

「はああ?越前を放置しておいて、関東へ出兵?

その間に甲斐が全域を支配したら私の立場はどうなるのですか?

せめて、甲斐氏討伐の命令を出して下さい」

 

ところが、義政と甲斐常治は仲が良かったので、決して懲罰しませんでした。

それどころか、義政は常治に肩入れしてきたので、逆に義敏がブチ切れました。

 

こうして、激怒した義敏は命令を無視して、甲斐氏の居城、金ヶ森城を攻めて大敗。

命令無視をした義敏に対して、義政は激怒して、家督を取り上げ、

義敏の息子で、3歳の松王丸(まつおうまる)に与えてしまったのです。

 

一番の迷惑を被ったのは、義政の命令で、古河公方討伐に出陣した

関東の守護大名達でした。

肝心の大将、斯波氏が出陣せず、自分達だけが戦う羽目になったのです。

 

(なんで、将軍家の内輪揉めの尻ぬぐいで俺達が戦わないといけねーんだ

やってらんねーぜ!!)

 

こうして、以後、関東の守護大名達は、義政の命令に従わなくなります。

関東は応仁の乱を待たず、下剋上の戦国時代に突入したのです。

 

さて、この程度のチョンボは義政にとっては、序の口です。

さらに、この後、応仁の乱の直接の引き金になる大事件が起きたのです。

 

将軍になった義政ですが、細川氏や斯波氏、山名氏のような守護大名の口出し、

三魔と呼ばれる、養父、烏丸氏や、乳母、今参局(いまさんのつぼね)

重臣有馬氏の介入などで、将軍職にうんざりし、祖父の義満のように

子供に将軍職を譲り、「大御所」として院政を敷こうとします。

 

1459年、富子に待望の男子が誕生しますが直ぐに、亡くなりました。

これで自暴自棄になった義政は、贅沢に逃げるようになり、寛正の大飢饉の最中で

餓死者で賀茂川の流れが堰き止められる惨状にも関わらず、日本庭園、邸宅の建築

猿楽や酒宴に大金を注ぎ、また自身の権威を高めようと、花の御所を増築、

時の天皇、後花園天皇(ごはなぞの・てんのう)が苦言を呈しても中止しませんでした。

 

1464年、将軍就任15年で隠居を考えだした義政は、

弟で出家していた義尋(ぎじん)を説いて、時期将軍にならないかと言い出します。

しかし、富子は24歳で、まだ若く、新しい男子出生の可能性があったので、

途中で捨てられる可能性を危惧した義尋は、なかなか首を縦に振ろうとはしません。

普段は飽きっぽい義政ですが、この時は執拗に猛アタックし、ついに念書まで書き

将軍就任を約束したので、義尋は折れて還俗し足利義視と名乗ります。

 

が、しかし、運命のいたずら、義政が義視を時期将軍と内定した翌年、

1465年、富子が懐妊、男子を産みます、これが9代将軍、足利義尚でした。

早くも存在意義が薄れた義視ですが、なおも義政は次期将軍を弟にするか、

息子にするか、決めかねていました。

 

その理由は、もちろん、念書を取ってまで、義尋に将軍を約束した

プライドもありますが、男子とはいえ、義尚はまだ産まれたばかりですし、

義視を9代将軍として、義尚が成人するまでの中継ぎにすれば、

万事収まるなど、虫のよい思惑があったようです。

 

が・・決断できない(ように周囲は見える)義政の思惑は裏目に出ました。

 

実子である義尚の将軍即位を望む富子や、重臣、伊勢貞親のような奉公衆と、

義視を擁立して、幕府政所(まんどころ)の力を削ぎたい細川氏や

山名氏の守護大名が激しく対立する事になったのです。

 

1461年、義政は松王丸に与えた斯波家の家督を足利家庶流、渋川家の

渋川義廉(しぶかわ・よしかど)に与えます。

この義廉の父は義鎮(よしかね)と言い、堀越公方、足利政知の執事でした。

義鎮の息子を斯波家の当主にすれば、一度は頓挫した斯波家からの援軍を

期待できると考えたのですが、この義鎮、関東管領の上杉家と対立して失脚します。

こうして、渋川家の当主になった義廉の存在は無意味になりました。

 

すると、義政はKYにも、一度、当主に据えた義廉と義敏を再び替えて、

義廉を追放しようとしたのです。

斯波義廉という人は、なかなか人格者だったようですが、さすがに、

気分次第で、斯波氏の当主の首を変える、義政の軽薄さには激怒しました。

 

こうして、義廉は山名宗全や畠山義就を頼り、さらに中国地方の雄の、

大内政弘とも連携を図ります。

ここに、西軍の母体が出来上がりますが、そうなると勢い、

斯波義敏は、対抗勢力の伊勢貞親を頼るようになります。

 

やがて、義政の寵臣の伊勢貞親が、管領家の斯波氏の家督争いに介入し

私服を肥やしている事が発覚、さらに足利義視が伊勢貞親から謀反の疑いを掛けられ

誅殺を恐れて、細川氏の屋敷に亡命する事件が発生しました。

こうして、政所の横暴に激怒した細川氏と山名氏が結託、西暦1466年、

武力で義政に圧力を掛け、伊勢貞親や斯波義敏を追いだす文正の政変を起こします。

 

こうして、自前の実力組織を失った義政は、完全に糸が切れた凧になり、

細川氏と山名氏の仲裁を行う力を失い、やがて畠山義就と畠山政長の

武力衝突、御霊合戦が発生し、京都は11年続く、応仁の乱に巻き込まれるのです。

 

初期の義政は、中立を保ち、東軍と西軍に停戦を呼びかけますが、

細川勝元が、花の御所を制圧し、義視が西軍に走ると完全に東軍にシフトします。

 

そして、「西軍は細川氏と私闘しているのであり、

将軍家に背いているわけではないので朝敵とは違う」と、

富子や義弟の日野勝光が諫言するのも聞かず、

東軍に将軍旗を与えて、西軍を賊軍認定していきます。

 

この処置は、西軍を退くに退けなくさせ、応仁の乱が長引く原因になりました。

 

1473年、応仁の乱の東西軍の大将、細川勝元と山名宗全が死去すると、

義政は、息子の義尚に将軍職を譲って隠居しますが、なかなか権力を手放さず、

やがて、息子とも対立、富子とも険悪な関係になって益々、芸術の世界へ没入

政治的には無能ですが、文化面に足跡を残す皮肉な余生を送ります。

 

1489年、息子の義尚が六角氏の討伐中に24歳で病死すると、

富子と共同で、美濃の土岐氏の元に亡命していた、足利義視の息子の

義材(後の義稙)を10代将軍に指名、翌年に54歳で没しました。

 

義政には、これという政治信念もなく、その時々で場当たり的な手を打ち

それが、周辺を振り回し作らなくていいトラブルを作りだしました。

結果として、強い将軍家の復活の掛け声とは裏腹に幕府の没落には、

歯止めが掛らなくなったのです。

 

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kawauso

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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