江川英龍は、伊豆国韮山の幕府の代官です。そして、早くから海防の必要性に気づき、国防問題に関心を持ち、日本の軍事技術の近代化に取り組んだひとりです。ハード面では銑鉄を造り大砲を製造、品川沖に建設された台場という海上砲台の建設を行いました。
また軍事の運用面では、国民皆兵の考え方の基礎となる農兵組織や近代戦の訓練、運用、糧食補給など多岐にわたり研究を行った人物です。また、代官としても善政を行ったことで領民から慕われた存在でした。今回は、代官でありマルチ技術者だった江川英龍を紹介していきます。
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江川大明神 領民に慕われた江川英龍
江川英龍を務めた伊豆韮山は伊豆国を中心として広大なエリアの管轄していました。その範囲は駿河国・相模国・武蔵国まで広がり、幕末期には甲斐国も広がります。そして、伊豆諸島までも管轄下にあるくらいに広大な領地を治めていました。この地で江川英龍は各地に有能な部下を配し、公平な政治を行っていきます。
江戸時代の主産業である農業については、農学者である二宮尊徳を招き耕作地の改良を実施しています。また、江川英龍は、日本に入ってきたばかりの種痘を蘭学者の人脈からいち早く入手し、領民に対し接種を勧めていきます。このため、領民は非常に江川英龍を尊敬し「世直し江川大明神」と呼ばれていました。
外国船の来航から海防に強い危機感を持つ
幕府はアメリカ船・モリソン号に対し砲撃を行いました。いわゆる1837年に起きたモリソン号事件です。モリソン号事件を契機に、江川英龍は外国船の来航に対し危機感を持つようになります。代官としての江川英龍の管轄するエリアは大きく、その海岸線は江戸近くにまで広がっているのです。江川英龍は海防問題を意識せざるを得ない事態になったのです。
その時期に幕臣・川路聖謨などの紹介で江川英龍は蘭学者との人脈を作ります。高野長英や、武士にして蘭学に対し造詣の深い渡辺崋山などと知り合います。江川英龍は、渡辺崋山の説く海防論に影響を受け、海防問題に対する危機意識を高めますが、実際問題として外国船に対抗できるような大砲はなはありません。旧式砲ばかりです。
砲術も戦乱の無かった日本では発展の余地がなく、戦乱続きの欧州とは大きな格差が生じていました。その中、海防問題に危機意識を持ち独自に最新の西洋砲術、大砲をはじめとした兵器の研究を行っている存在がいました。長崎の役人であった高島秋帆です。
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西洋砲術を導入し諸藩の藩士に伝授、維新の種を撒く
江川英龍は高島秋帆より西洋の近代砲術を学び、まずは軍事技術者としての基礎を身に着けていくのです。高島秋帆は、日本で唯一西洋情報の入り口となっている長崎の役人です。彼は、資財を投入して、西洋軍事技術の導入、研究を行っていました。江川英龍は、高島秋帆の江戸での演習を幕府に申し出てこれが認められます。その公開演習を行った徳丸が原が、今の「高島平」という地名になりました。
江川英龍は高島秋帆の砲術に更に独自の改良を加え、各地の藩士に砲術を教授しました。その弟子たちは幕末、維新の中で活躍した人物が多く、佐久間象山、大鳥圭介、橋本左内、桂小五郎、伊東祐亨がいます。江川英龍の砲術を中心とする最新の軍事技術を広く伝授したことは、ある意味、彼が維新の種を撒いたともいえるのです。それは、日本が西洋列強に対抗可能な技術を伝授することだったからです。
老中阿部正弘に見いだされ江戸湾に砲台を築くが・・
天保の改革が失敗し水野忠邦が失脚し、老中が阿部正弘となりますが、彼も江川英龍を重用します。ペリー来航により、江戸湾の防衛問題が浮上します。外国の軍艦に対し、江戸の町はあまりにも無防備であり、勝手に測量されてもなにもできません。江川英龍は、江戸湾防備のための台場の建設を具申し、それが認められ、品川沖で台場の建設が開始されます。
今、東京の観光スポットになっている台場は、元々は軍事施設であり海上砲台です。江川英龍は大砲を連携させた台場11基の設計を行いますが、実際に完成したのは5基だけです。幕府全体の財政難が根本にあります。5基の建設だけで75万両の巨費がかかっています。バランス、調整型の政治家であった老中の阿部正弘としても、可能な範囲での妥協の結果で5基の台場建設で打ち切りを判断したのでしょう。
パンを焼き反射炉を設計した行動の人
江川英龍は、軍隊の運用面、兵隊に食べさせる糧食にパンの導入を考えた最初の日本人です。米は栄養価の高い非常に優れた食べ物ですが、軍用にはむきません。人間は生米を消化できません。その点、パンは日持ちがし、米のように炊く必要が無いことから、軍用食として向いていると考えたのです。
そして、江川英龍は自宅でパン用のかまどを造り、パンの製造を開始します。日本で初めてパンを作ったのです。その後も、近代に入り昭和になっても日本軍ではパン食を軍隊に導入しようとしますが、中々上手くはいきませんでした。その意味でも、江川英龍の軍隊へのパン食導入は先見性のあることだったのです。
そして、江川竜彦は、大砲を作るための質のいい鉄を造るための反射炉の設計も行っています。完成は彼の死後になりますが、幕末期において反射炉は各地に建造され大砲の鉄を供給することになります。江川英龍は、幕末期の日本において、最先端を走っていたマルチ技術者だったのです。
新選組のヒントは江川英龍にあった!
江川英龍は、軍隊組織の構成についても考えます。そもそも兵となる者は武士でなければいけないのかどうかということです。近代的な軍隊において、必要な素養は、武士に必要とされる素養と被る部分もあるでしょうが、農民の頑健な肉体は、十分に近代戦で役に立ちます。
日本においては農民の教育水準も、低くはありません。軍隊において兵の教育水準の高さはそのまま戦力につながると言われます。江川英龍は「農兵組織」を作り上げていきます。この結果、農民の間で剣術が流行り、武蔵野国多摩の剣術である天然理心流を学ぶ者が増えたのです。天然理心流は新撰組の母体となった近藤勇の試衛館で教えていた剣術流派です。農民の出身の土方歳三が剣術を修行し、やがて近藤勇と新撰組の中心になっていくのは、江川英龍の農兵政策の影響があったのです。
幕末ライター夜食の独り言
江川英龍は、伊豆国韮山の幕府の代官です。なぜ代官がここまでのことが出来たのか?
その理由は代官といっても、江川英龍が治めるエリアが非常に広かったということがあるでしょう。海岸線も長く、江戸の近くまで伸びる部分が代官としての責任範囲になってきます。まずは、代官としての職務のため、江川英龍は直轄地の海岸線防備を考えていたのではないでしょうか。そのために、必要な知識を集め、人脈を広げるうちに、日本の海防が全く何も無いという現実を知っていきます。
そして、高島秋帆に弟子入りしたことで、日本の軍事技術の遅れも痛感していきます。代官としての職務を果たすためには、日本全体の軍事技術力を上げなければ、どうにもならないことに気づくのは簡単だったでしょう。江川英龍は、いかにして、日本を西洋列強の勢力から守るのかという問いに早い段階で直面したのです。その回答が、兵器に最新技術を導入すること。軍隊運用を近代兵器に合った形に作り直すことであったのでしょう。江川英龍の残した実績がそれを示しています。
江川英龍が幕末期の日本で最高の軍事技術を持ったマルチ技術者となったのはなぜか?
代官として長い海岸線を持つエリアの責任者であったこと。モリソン号事件で、危機感を持ち、蘭学者等と人脈を作ったこと。その人脈から高島秋帆にたどり着き、彼の弟子になったこと。そして、江川英龍の資質も非常に高かったというのが最大の理由かもしれません。技術の面から日本を変えていった草分けとも言える存在が、江川英龍です。
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